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2002/11/07 月夜
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内田一成
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月の光だからこそ見えるものがあるかもしれない....
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■ このごろ、月夜の晩に、寂しい山間や海沿いの道を走っていて、思わずその冴え冴えとした光の中に浮かび上がる光景にうっとりしてしまうことがある。
■ 子供の頃は、遊びに夢中になっているうちに、山の中で日が暮れてしまい、空に上った月が怖くて、半べそになって家路を急いだものだった。月明かりに浮かび上がる小道を辿っていると、次第に、空の月が自分を追いかけてくるような気がしてくる。それを振り切ろうと、全速力で野を駆けていく。
■ 子供の頃に夜が怖かったのは、昼間には見えない何物かを月が浮かび上がらせてしまうことを無垢な心が感じ取っていたからかもしれない。
■ 大人になって頭が理屈に固まってしまうと、ぼくらの周りを取り巻いている自然の微妙な変化は感じられなくなり、一日のサイクルとして夜が来るのは当たり前のことと思って、子供の頃の畏れの感覚などすっかり忘れてしまう。
■ だけど、オートバイで旅をしていて、いつしか夜になり、月を旅の相棒としてしたがえて走っていると、子供の頃の素朴な畏れとともに、太陽の光の元ですべてがはっきりした輪郭を持っている昼の世界とは違う世界がそこに広がっていることを思い出してくる。
■ ロバート・グレイブスの『白き女神』という作品の中に、「太陽の知識」と「月の知識」という話がある。太陽の知識というのは近代的な理性。それは概念を通して働き、物事を分析して断片化してしまう。いっぽう月の知識は、直感的で、物事の全体を一瞬にしてつかむ、「悟り」といったものに近い知識だという。
■ 明るい太陽光線の下では、ぼくたちはモノを凝視して、その細部まで確かめようとしてしまう。だけど、ぼんやりとした月光の元では、自然に、凝視することはやめて、モノを取り巻く雰囲気まで含めて、ただ全体を受け取る構えになる。
■ 夏から秋の夜には喧しかった虫の声も止んでひっそりとした山間や、打ち寄せる波音しか聞こえない広い砂浜にさしかかると、オートバイのエンジンを切って、ただぼんやりと月の光に包まれたくなる。仕事場の壁には、石川賢治さんの「地球月光浴」のポストカードが何枚か貼ってある。仕事に疲れたときなど、直接月光を浴びなくても、その太陽の光の何十分の一か何百分の一かの青い光の世界を見るだけで、神経をスッとクールダウンしてくれる。
■ 今日は新月。これから月は再び光を強めていく。また満月になったら、どこか海辺にでも行ってみよう。
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