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徳川家康がしたこととは?「時」が来るまで自分の持ち場で最善を尽くす!後世にも残る徳川家康の仕事

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月12日

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徳川家康がしたこととは?「時」が来るまで自分の持ち場で最善を尽くす!後世にも残る徳川家康の仕事

約260年続いた泰平の世、江戸時代の基礎を築いた徳川家康。
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」とは徳川家康の性格を表しているとされる有名な句ですが、彼はただ待っていたなんてことはありませんでした。その場その場で考えぬき行動を起こした結果が、満を持して江戸幕府開府へと花開くのです。開府後、大御所となり代変わりしてからも、その思考は止まることはなかったようです。

さて、時は約500年ほど遡ります。幼少期を今川家の人質として過ごし、今川一門の娘と結婚した三河の松平元康(徳川家康)。永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、今川家から独立します。さあ、ここから、徳川家康の人生が動き出していくのです!

【徳川家康がしたこと】織田家臣従時代~清州同盟

永禄6年(1563)には、今川義元より与えられた「元」の字を捨てて名を家康と改めて、今川家との決別を示し、さらにのちに姓を徳川に改めました。また、桶狭間で敵対した織田信長と清須同盟を結び、以後、織田信長の東の藩塀(はんぺい)として行動するようになります。

徳川家康は三河一向一揆を鎮圧し、武田信玄と結び今川領侵攻

一向一揆を鎮圧した徳川家康は、今川氏より東三河を奪還すると、武田信玄と結び、永禄11年(1568)、今川領に東西から攻め込みます。徳川家康は今川氏真が逃げ込んだ掛川城を開城させ、遠江を手に入れたのです

しかし、戦いのなかで武田信玄の敵対行動を受けて同盟は破綻(はたん)します。

徳川家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄と衝突

今川義元亡き後、自立した徳川家康は、武田信玄と永禄11年(1568)に共同で今川領に侵攻するなど良好な関係を築いていました。

ところが、掛川城包囲中に武田信玄麾下(きか)の秋山虎繁(あきやまとらしげ)の侵攻を受けるなどしたため、徳川家康は武田信玄に疑念を抱くようになります。結局、徳川家康が元亀元年(1570)、対抗策として上杉謙信と同盟を結んだことで、武田信玄とは手切れとなりました。

そうした武田信玄と徳川家康が衝突したのが、元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の戦いです。武田信玄は、織田信長と対立する将軍・足利義昭の要請を受けて西上を開始していました。

元亀3年(1572)12月に起こった三方ヶ原の戦いにおいて、浜松城に籠る徳川家康を城外へおびき寄せて野戦へと持ち込むべく、武田信玄は城の手前で迂回するという陽動作戦をとります。徳川家康はこれにまんまとはまり、三方ヶ原で大敗を喫することとなります。

徳川家康は長篠の戦いで武田軍に大勝。織田信長が天下人へ

武田軍は、三方ヶ原(みかたがはら)(静岡県浜松市北区)で徳川軍を散々に打ち負かしたものの、その最中に武田信玄が病没。武田軍は勝利を収めながら、撤退を余儀なくされました。武田信玄の死後、武田の家督を継いだのは勝頼(かつより)でした。

武田勝頼の代に最大版図を築き、再び西へと目を向けることになります。そうした流れのなかで、武田軍は徳川氏の長篠城を包囲したのです。

長篠の戦いでとられた籠城戦というのは、味方の救援(後詰(ごづ)めという)を想定した持久戦です。武田軍1万5000、織田・徳川連合軍3万8000の戦いが始まります。

両陣営が設楽原で対峙して睨みをきかせるなか、信長は家康の重臣・酒井忠次(さかいただつぐ)に2000の精鋭を預け密命を授けました。それが鳶ヶ巣山(とびがすやま)への奇襲攻撃です。この奇襲が成功し、織田・徳川軍は大勝しました。

この合戦に勝利したのち、織田信長は畿内で権力基盤を確固たるものとし、名実ともに“天下人”となっていきます。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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