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応仁の乱で京都は焼け野原に!戦場となったのは一部だけ? 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月22日

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応仁の乱で京都は焼け野原に!戦場となったのは一部だけ?

「京の町一面を焼け野原にした」と言われる応仁の乱ですが、市内で戦場となったエリアはそれほど広くありませんでした。
どこで何が起こっていたのでしょうか。

応仁の乱とは

教科書的に言うと、「応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱」は1467年から1477年まで続いた、管領・細川勝元(ほそかわかつもと)率いる東軍と、山名宗全(やまなそうぜん)率いる西軍が京都を舞台に戦った内乱です。

最終的に、北陸や東海、西日本全域にまで広がる戦乱の前哨戦の集まりでした。これにより室町幕府の権威は失墜し、以後、日本は100年以上も続く戦国時代へと突入します。

応仁の乱とは

乱勃発地の碑がある上御霊神社。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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