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中馬は信濃国で発達した輸送業者~宿駅の問屋と輸送業トラブル?~ 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月26日

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中馬は信濃国で発達した輸送業者~宿駅の問屋と輸送業トラブル?~

中馬とは、江戸時代に信濃で発展した荷駄(にだ)の運送方式です。利便性が高く、広範囲に普及していきますが、いさかいの元にもなっていくのでした。

中馬が生まれた背景①:江戸時代に五街道が整備され、宿場町が設けられた

1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、全国に支配力をいき渡らせるために、翌1601(慶長6)年から江戸・日本橋(東京都中央区)を起点とする5本の陸上幹線道の整備に着手します。

この五街道(東海道、甲州街道、日光街道、奥州街道、中山道)のうち、日本橋から長野県域の山岳地方を抜け、内陸経由で三条大橋(京都府京都市)へとつながるのが中山道です。京までの全行程は約534㎞ ですが、草津宿(滋賀県草津市)以西は東海道と合流します。長野県域の中山道沿いには、軽井沢から妻籠(つまご)まで26の宿場町が設けられました。

中馬が生まれた背景②:宿駅の問屋が荷物の継ぎ送りで稼げた

公街道は有事に軍事活用することが主目的であるため、宿駅には問屋が置かれ、伝馬役(てんまやく)(人馬供給の課役)が課せられました。その見返りとして、宿駅の問屋には、非公用の荷物を継ぎ送りして運賃を稼ぐ権利が認められていました。

中馬が生まれた背景③:安上がりで利便性も高い駄賃馬稼(中馬)の登場

しかし、問屋継ぎ荷だと手間や駄賃がかさむため、近隣の農民が自身の生産物を城下に運ぶ際には百姓手馬(てうま)(持ち馬)を用いていました。すると、伊那地方では農閑期に手馬で荷物を運んで運賃を稼ぐ副業(駄賃馬稼(だちんうまかせぎ))が行われるようになります。手馬での付通(つけとお)し(継ぎ送りせず1頭の馬で運搬する)なら問屋継ぎ荷より速く安上がりで、しかも目的地まで直送できる利点があり、信濃・三河・尾張の受注荷を長距離輸送する半専業的な駄賃馬稼人が増加します。これらの業者はのちに「中馬(ちゅうま)」と呼ばれていました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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