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千曲川の歴史~洪水を繰り返してきた暴れ川の治水事業の全容とは~ 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月26日

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千曲川の歴史~洪水を繰り返してきた暴れ川の治水事業の全容とは~

日本最長の一級河川である全長367㎞ の信濃川のうち、長野県域部分を指す全長214㎞ の千曲川。たび重なる水災を防ぐため、改修工事が進められてきました。

千曲川とは?

千曲川の流域面積は、長野県の約半分を占める7163㎢で13市12町16村にまたがり、流域には長野県の人口の約70%となる150万人以上が暮らしています。

千曲川は長野県、埼玉県、山梨県の3県の境にある甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)を源流とし、川上村から佐久盆地を経て、中流部の上田盆地に流れ込み、長野盆地で最大の支流である犀川(さいがわ)(上流部は梓川)と合流し、長野市の東縁を流れます。このあたりで盆地から山間部に入り、川幅が狭まって治水の難所となる立ヶ花(たてがはな)(中野市)を抜け、下流部の飯山盆地を貫流(かんりゅう)すると、新潟県に入って信濃川と名を変えます。

千曲川を舞台とした歴史上のさまざまな事柄

千曲川流域からは、最古のもので約5万年前とされる遺跡が出土しており、先土器時代後期頃から流域に人が住み着いたのではないかと推測されています。『万葉集』では、「筑摩川」と詠まれています。戦国期に武田信玄と上杉謙信が激戦を繰り返した川中島の戦いでは、千曲川と犀川が舞台となりました。武田軍の本陣となった千曲川東岸の平城・松代城(海津(かいづ)城)は、千曲川を防御濠として取り入れた天然の要害となったのです。近世末期には舟運も栄んになり、近代に入ると島崎藤村(しまざきとうそん)や志賀直哉(しがなおや)らの作品で千曲川が扱われています。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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