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初期の長崎本線は早岐経由だった~鉄道から船と人力車に乗り換え長崎へ!? 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月26日

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初期の長崎本線は早岐経由だった~鉄道から船と人力車に乗り換え長崎へ!?

長崎が鉄道建設計画で福岡、佐賀、熊本に遅れをとったことで、早岐(はいき)経由の迂回ルートとなってしまった長崎本線。
しかも当初、乗客は大村湾を船で渡っていました!

長崎本線と九州鉄道の成り立ち

鉄道鳥栖(とす)駅と長崎駅を結ぶ長崎本線。じつは当初の長崎本線は、鳥栖からその西側にある早岐を経由して長崎へ南下するルートであったのをご存じでしょうか。

なぜそのような迂回ルートになったのかというと、九州鉄道の成り立ちと関係しています。明治5(1872)年の日本初の鉄道開通(新橋駅〜横浜駅)を皮切りに、鉄道の建設ラッシュは日本全国に波及。九州では、福岡、熊本、佐賀の有志による九州鉄道会社の設立が計画されました。3県の発起人による計画では、佐賀に関しては、西端の有田村から県境を越えた長崎県の早岐村を終点とするものでした。早岐まで伸ばそうとしたのは、その近隣に海軍佐世保鎮守府(ちんじゅふ)が設置されたため。軍港の近くまで線路を敷いた鉄道を造る計画なら政府の許可を得やすく、補助金も出るだろう、との算段によるものでした。

長崎県有志によって九州鉄道会社の設立が認められる

ところが、この計画を知った長崎県有志が、「長崎にも鉄道がなくては」と危機感を抱いて長崎鉄道会社の設立を決め、長崎から早岐を経由して佐世保への路線を建設すべく、政府に願い出ます

2つの願書を目にした政府は、両計画を一本化するよう通達。その結果、4県有志の合同出資による九州鉄道会社の設立が明治21(1888)年に認められたのです。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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