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三菱長崎造船所のあゆみ~世界遺産に登録された日本造船業の原点!

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月26日

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三菱長崎造船所のあゆみ~世界遺産に登録された日本造船業の原点!

三菱の造船業は安政4(1857)年創設の「長崎鎔鉄所」が起源。
わずか50余年のうちに世界レベルの造船大国になった、その発展の裏にはどんなドラマがあったのでしょうか。

三菱長崎造船所の前身施設「長崎鎔鉄所」

黒船来航後、江戸幕府は欧米列強諸国からの植民地化を恐れ、海防体制強化、海軍士官養成のため、安政2(1855)年に「長崎海軍伝習所」を発足しました。これにともない伝習所総取締の永井尚志が、訓練船をはじめ戦艦の造修施設の必要性を幕府に上申し造られたのが「長崎鎔鉄所」。安政4(1857)年、畑地だった現在の長崎市飽の浦町を借り上げ、建設がスタートしました。

上棟式に際して名称を「長崎製鉄所」と改める

総指揮はオランダ・ロッテルダムから呼び寄せた海軍士官ヘンドリック・ハルデス。ハルデスは一緒に来日した10人の技術者とともに、レンガの焼き方から屋根の骨組みにいたるまで、洋式工場建設の技術を基礎から指導。慣れない異国の地で試行錯誤しながらも、文久元(1861)年にレンガ造りの鍛冶場、工作場、鎔鉄場の3工場を擁する工場が竣工。前年の上棟式の際に名を「長崎製鉄所」と改めました。

当時、幕府がオランダから取り寄せた機械類のうち竪削盤(たてけずりばん)は、現存する日本最古の工作機械として、国の重要文化財に指定されています。

長崎の造船業における要人不在の空白期間

これが日本における近代造船業の第一歩となりますが、日本の近代産業を牽引した長崎の造船業が、世界のどの国よりも急速に世界の頂点に向かって快進撃を披露するのは、しばらくあとになります。

というのもハルデスは工場完成前に帰国したうえ、江戸に近い場所に蒸気機関の工場を計画した幕府は、長崎から技術者や製鉄所の主要人物たちを呼び寄せ、長崎に要人不在の期間がしばらく続いたことが原因として考えられます。

長崎製鉄所の官営化

事態が急転したのは、江戸幕府が終焉を迎えた明治元(1868)年のこと。長崎製鉄所は明治政府に収められ、本木昌造(もときしょうぞう)を頭取に据えて官営化しました。

翌年にはトーマス・グラバーと薩摩藩士の五代才助(ごだいさいすけ:友厚(ともあつ))、小松帯刀(たてわき)らが共同出資して建設した「小菅修船場(ソロバンドック)」を買収。

明治12(1879)年には、巨大ドライドック「立神第一ドック」が完成したことにより、新鉄船の建造が可能になりました。

長崎製鉄所の財政難

こうして官営となった長崎製鉄所は着実に実績を上げていったわけですが、富国強兵・殖産興業を掲げて推し進めた官営事業の多くは、当時、赤字経営から脱することができずにいました。

また明治10(1877)年に勃発した西南戦争時の戦費捻出がたたってインフレに突入。政府は深刻化した財政難により、明治13(1880)年に「工場払下概則」を発布しました。

三菱によって買収され「長崎造船所」として再スタート

ここで製鉄所の買収に名乗りを上げたのが三菱でした。

明治17(1884)年、岩崎彌太郎率いる三菱は長崎製鉄所の貸下げを出願。借り受け後は「長崎造船所」と命名して、造船事業を起業しました。正式に三菱の経営となったのは、払い下げ代金を完納した明治20(1887)年のこと。

ここから三菱は、日本の造船業のトップランナーとして加速度を増し発展していきます。

三菱の父・岩崎彌太郎

天保5(1835)年に土佐国安芸郡生まれ。慶応3(1867)年に「土佐藩開成館長崎商会」の主任を務めたのち、明治3(1870)年に大阪に海運業「九十九(つくも)商会」を設立しました。社名を改めながら業績を上げ、海運業では国内トップに上り詰めました。

その後、後藤象二郎から高島炭坑を買い取り、明治17(1884)年に長崎製鉄所の払い下げを申請して造船事業を開始。この事業は、のちに三菱重工業株式会社長崎造船所に継承されることとなりました。

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