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【日本のお城と武将②:愛知県】駿府城と徳川家康

【日本のお城と武将②:愛知県】駿府城と徳川家康

駿府城は三重の堀を持つ輪郭式の城で、現在は本丸と二ノ丸の城跡が駿府城公園として整備されています。

2016(平成28)年から行われている駿府城跡天守台発掘調査の報告によれば、駿府城の慶長期天守台の大きさは、南北(西辺)約68m、東西(北辺)約61m。徳川将軍家の居城である江戸城の天守台が南北(西辺)約45m、東西(北辺)約41mなので、それを大きく上回っているのです。

駿府城になぜ日本一の天守台が建っていたのでしょうか。それは、江戸幕府の創設者で戦国大名のトップとして絶大な権力を握っていた徳川家康が大御所として居住する城だったからにほかなりません。


現在は、本丸と二ノ丸が駿府城公園となっている城跡。大御所家康が築城した慶長期天守台は公園の北東で発見されました。2018(平成30)年には、豊臣政権が築城に関わったとみられる天正期天守台や金箔瓦も見つかっています。

駿府城を徳川家康が居城に選んだわけ

徳川家康は、なぜ居城に駿府城を選んだのでしょうか?

徳川家康にゆかりのある僧侶・廓山和尚(かくざんおしょう)によると、家康自身が次のような理由を挙げていたといいます。

まずは、幼少期を過ごした心の故郷だったこと。徳川家康は幼い頃、駿府に本拠地を置いた大名・今川義元のもとに預けられ、19歳まで過ごしています。もう一つの理由が、富士山の眺望や温暖な気候、米が天下一品であること。

これらが駿府城で余生を過ごす大きな理由になったようです。

駿府城の立地と徳川家康の幕藩体制の確立

駿府城の立地と徳川家康の幕藩体制の確立
駿府城本丸跡にある「大御所」として駿府に移ってきた頃の家康の姿を表した銅像。

もちろん、個人的な理由だけではなく、徳川家康は当時の政治状況も踏まえていました。駿府城の西には大井川や安倍川などの河川があり、東には箱根山と富士川の難所があります。その立地は、戦略的観点で優位だったことを意味しています。

駿府城改修の2年前である1605(慶長10)年、徳川家康が息子・秀忠に将軍職を譲った時、大坂では未だ豊臣家が隠然たる実力と影響力を持っていました。その影響力を考慮し、関東防衛のための拠点として、徳川家康は駿府の地に巨大城郭を築いたのです。

また、参勤交代で東海道を利用する諸大名が徳川家康に拝謁するのに駿府はちょうど便利な位置にあり、彼らは駿府を通る際に壮大な駿府城を見ることで脅威を感じ、同時に、徳川家康と江戸幕府に対する畏怖の念を覚えたはずです。

つまり駿府城は、幕藩体制の確立に一役買っていたと言えるのです。

駿府城の天守台発掘調査と今後

その後、静岡市による天守台発掘調査では、家康時代の天守台の下から、豊臣政権が築城に関わったとみられる天正期天守台や金箔瓦が発見されています。

さらに大規模な天守に併設される「小天守(しょうてんしゅ)」の小天守台や、天守台と小天守台をつなぐ石垣も発掘されており、16世紀末の城郭で天守台と小天守台を同時に確認できたのは全国初。今後もさらなる発見が期待されています。

駿府城の天守台発掘調査と今後

1989(平成元)年に復元された巽櫓は、全国にある城の中でも例の少ないL 字型の平面を持つ、防御に優れた櫓でした。

駿府城公園

住所
静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1
交通
JR静岡駅から徒歩10分
料金
情報なし

【日本のお城と武将③:愛知県】名古屋城と徳川家康

【日本のお城と武将③:愛知県】名古屋城と徳川家康
123RF 名城・名古屋城は、1609(慶長14)年に駿府(静岡県)の徳川家康が築城を命じました。

戦国時代、尾張(愛知県)の中心地は清洲でした。織田信長亡き後、豊臣秀吉が中心となり継嗣・領地問題について合議が行われたのも清洲城です。

名古屋城は1520年代に今川義元によって築かれたといわれ、その後、信長の手に渡りましたが尾張の政治的中心地はなお清洲でした。そして関ヶ原の戦いから10年、1610(慶長15)年、徳川家康により現代に知られる名古屋城築城が始まります

名古屋城が築城された熱田台地

南北に細長く延びた舌状台地をなす熱田台地は、北側、西側に広がる低湿地帯に比べて地盤が非常にしっかりしています。徳川家康は、その頑丈な熱田台地の北西の角に名古屋城を建てました。城の北側と西側は崖で、その下は足場の悪い湿地とくれば、いかにも攻め難い強固な城です。

築城事業は天下普請であり、建造を命ぜられた大名らは担当部分の費用をみずから出さねばなりませんでした。そしてこれは、豊臣方の大名たちの経済力を削ぐことにつながりました。徳川家康、恐るべしです。

濃い青色が標高の低い土地で、黄色・橙色・赤色と赤みが強い場所ほど標高が高いです。名古屋城は、舌状に南北に延びた台地(黄色)の西北端に築かれ、北側と西側が崖になっているのがよくわかります。

名古屋城が熱田台地につくられた理由

自然の要害を利用した名古屋城ですが、じつはこの地につくられた理由は地勢だけが理由ではありません。

名古屋城から南へ約7㎞、舌状台地の南端にあるのが天下人を目指した信長、秀吉らも崇め奉った熱田神宮徳川家康もまた、熱田神宮を崇めてやまない武将であり、それが熱田の台地に城を建てた大きな理由でもありました。
古代から熱田の社として多くの人々が参詣してきた熱田神宮は、門前町も賑わい、東西交通の要衝として発展してきました。近世には東海道の宿場町となり、熱田の宮から三重の桑名までを結ぶ海上路「七里の渡し」でつとに有名です。

徳川家康が構築した大坂に睨みを利かせる防御力の高い名古屋城は、地の利を生かした、まさに名城です。

名古屋城

住所
愛知県名古屋市中区本丸1-1
交通
地下鉄名古屋城駅から徒歩5分
料金
入場料=大人500円、中学生以下無料/ガイド=無料/(名古屋市内在住の高齢者は本人確認書類等持参で100円、各種手帳・受給者証持参で無料)

名古屋城と縁の深い吉田城は豊川の河岸段丘上に築かれた

名古屋城と縁の深い吉田城は豊川の河岸段丘上に築かれた

名古屋城と縁の深い城が、現在の豊橋市にある吉田城です。城の創建は1505(永正2)年(諸説あり)、駿河の今川氏親(いまがわうじちか)の指示により、現在の豊川市牧野町一帯を本拠としていた牧野古白(まきのこはく)が馬見塚(まみづか)に「今橋城」を築いたのが始まり。当時の東三河地域には戸田氏や西郷氏がおり、重要な場所でした。

吉田城は、豊川と朝倉川の合流点、豊川が大きく蛇行している南側の河岸段丘上に築城されました。この場所は、古代から豊川を渡るための交通の要所であり、難所でもありました。船着き場となっていた入道ヶ淵を埋め立てたといわれます。また、段丘面は豊川から10m超の高さがあり、自然の要害となっています。

その後、吉田城はその城主がめまぐるしく代わり規模が拡大していきました。とくに、1590 (天正18)年、豊臣秀吉の家臣である池田照政(いけだてるまさ)が城主となった際には、歴代城主最大の15万石で入封。東三河の要衝とするべく大規模な拡張工事が行われました。その際、天下普請の名古屋城の余剰石材が使用されています。その証拠に、石垣の花崗岩の多くに刻印があり、約60種の刻印は名古屋城のそれと符合。ここに、吉田城の重要度合いと格の高さがわかります。

また、鉄櫓(くろがねやぐら)の北西2面の石垣は池田照政時代のもので、建築技術の高さも一級品。ほかに空堀や土塁など、往時を感じることができる貴重な遺構が残されています。

【日本のお城と武将④:大阪府】大阪城と豊臣秀吉・徳川家

【日本のお城と武将④:大阪府】大阪城と豊臣秀吉・徳川家

現在の大阪城天守は、「昭和の天守閣復興」により1931年11月に完成したもので、豊臣秀吉が築いた初代から数えて3代目にあたります。2代目は徳川時代の大坂城です。

本能寺の変の翌年、大坂に入った豊臣秀吉は、浄土真宗の本山として栄えた石山本願寺の跡地に築城を開始し、城下町の建設に着手しました。そのわずか2年後の1585年に初代天守が完成しました。

豊臣秀吉が天守の建設を急いだのは、当時はまだまだ政権が不安定だったので、できるだけ早く権力を象徴するシンボルが欲しかったからです。

天守の規模は5層6階。石垣内にも2階分あるので計8階建てだったと考えられています。 信長の居城・安土城をしのぐスケールでした。しかも富と権力を誇示するために、天守に金箔押し瓦が多く用いられたというから驚きです。

最上階には、城下町を見下ろせる望楼が設けられ、外壁には高欄付きの縁がめぐらされていました。その外壁には、金の桐紋や鷺の絵が描かれていたというので、ずいぶん優美で装飾性の高い天守だったことがわかります。天守の壁は黒漆で塗られ、秀吉に臣従する諸大名も居城の色をこれに合わせたといいます。

大阪城の築城と落城

天守を含む築城工事は15年にもおよびました。四重の堀に囲まれた巨城のもっとも外側を守る総構えは、北は旧淀川、東は旧猫間川、南は現在の空堀通りの南側、西は東横堀川を範囲としたと考えられています。これらを含む城郭の面積は推定420万㎡。それは現在の大阪城公園の4倍の広さに相当します。

豊臣秀吉の死後、関ケ原の戦いを経て、徳川家康が1603年に征夷大将軍に就き、江戸を本拠地とする政治を開始。大坂城は1615年の大坂夏の陣で落城し、豊臣家は滅びました。

大阪城の再建に着手した徳川秀忠

江戸幕府は大坂を直轄地としました。2代将軍徳川秀忠は西日本の諸大名ににらみをきかせる軍事拠点とするため、1620年に大坂城の再建に取りかかりました。

天守の建設は幕府の直営で行われ、石垣の構築と堀の掘削の普請は西国と北陸の外様大名64家が担いました。

大名には工事担当区域「丁場」が割り当てられ、分担する石垣の長さは石高に応じて決められました。そのため徳川の大坂城の石垣には、大名が自分の担当丁場を誇示するかのように家紋などが刻印されています。

大坂城は築城技術の完成期に再築されたため、石垣には洗練された技術が見られます。

石垣には硬質の花崗岩が用いられました。幅 10mを超える巨石が使われたことも2代目の大坂城の特徴です。巨石は後年、「蛸石」や「肥後石」のように名前がつけられました。

巨石の多くは瀬戸内海の島々から舟で大坂まで運ばれました。廃城となった伏見城や加茂 (現・京都府木津川市)、六甲山で切り出され、川で大坂まで運ばれたものもありました。陸上では「修羅」と呼ばれる木製のソリによって石曳きされたと考えられています。

大阪城の2代目天守の完成と損失

徳川による2代目天守が完成したのは1626 年。城郭全体の工事が終わったのは3代将軍家光の時代となった1629年でした。現在の大阪城の基礎は、こうして徳川幕府によってつくられたのです。

ところが、2代目天守は1665年に落雷のため失われ、以後、江戸時代に天守は再建されませんでした。さらに、戊辰戦争(1868年)の際に幕臣の放った火により、城内の多くの建物も失われました。

明治時代になると、大坂城陸軍の管轄となり、城内にはさまざまな軍事施設が設けられました。

大阪城の3代目天守の復興

大阪城に天守が復活したのは、2代目天守の焼失から266年後のことでした。1928年、当時の關一(せきはじめ)大阪市長が大阪城天守閣の復興を提案。資金は市民からの寄付金150万円(現在の貨幣価値に換算すると約750億円)で賄われました。3代目天守は『大坂夏の陣図屏風』に描かれた豊臣期の天守をモデルとしました。

復興工事がはじまったのは1930年5月。築造以来およそ340年を経た古い石垣に総重量1万1000tにも達する建造物を載せる難工事で、途中で設計変更をしながら1931年 11月に竣工しました。

鉄骨鉄筋コンクリート造りで外観は5層、高さは55m。天守の高さは、初代が約40m、2代目が約58mだったと推測されているので、高さについては2代目に近いです。築城技術と重機がなかった豊臣期の大坂城と、それを凌駕する徳川期の天守がいかに異次元の大きさであったのか想像を絶します。

3代目天守はエレベーター2基を備えたビルで、天守閣内部は博物館となっています。1997年、国の登録有形文化財に登録されました。

現在の城の縄張り(範囲)は、徳川時代とほぼ同じ。本丸や二の丸だけでなく、淀殿と豊臣秀頼が自害した山里丸などの遺構が残されています。立地は、上町台地でもっとも高いです。

大阪城天守閣

住所
大阪府大阪市中央区大阪城1-1
交通
JR大阪環状線大阪城公園駅から徒歩15分
料金
大人600円、中学生以下(要証明)無料(15名以上の団体は割引あり、大阪市在住の65歳以上は証明書持参で無料、障がい者手帳持参で無料)

【日本のお城と武将⑤:宮城県】仙台城と伊達政宗

【日本のお城と武将⑤:宮城県】仙台城と伊達政宗

徳川家康の許可を得て仙台築城の縄張りが行われたのは、1600(慶長5)年の 関ケ原合戦から3か月後でした。築城が始まったのは1601(慶長6)年。その年に、地名を仙臺(仙台)に改めています。

築城の候補地としては、石巻や現在の仙台市榴岡などが挙がりましたが、最終的には国分(こくぶん)氏の領地で、廃城となっていた千代(せんだい)城を活用することになったといわれます。

千代城があった青葉山は、広瀬川に面して約60mの断崖がそそり立ち、そのほかは山林に囲まれています。現在は、仙台城跡の南側から八木山橋(やぎやまばし)をわたって八木山方面に行けますが、当時は橋もなく、真下は竜の口渓谷です。

峰続きの西南には、深さ約14.5m、幅約47mの堀切が設けられました。城の石垣は西側と北側に、さらに登城路の途中に、防護を兼ねた石垣がいくつか設けられましたが、他の城に比べれば格段に少ないです。

そして、北側の一部のみが急坂となって、頂上へと至る道になっていました。その道を除いては、人馬を寄せ付けぬ地でした。天然の要害です。

仙台城に伊達政宗が天守を築かなかったのはなぜ?

仙台城本丸に天守は造られませんでした。徳川家康が警戒することを憚って造らなかったとも伝わりますが、東側の崖上に立てば城下を一望できたから、高層の建物を造る必要はないと判断したとも考えられています。

天守の代わりに築かれたのが、仙台城大広間です。千畳敷とも言われる広さを誇り、内部には藩主が住まう「上段の間」をはじめ、多くの部屋が設けられていました。安土桃山時代を象徴するような、絢爛豪華な障壁画などで飾られていたといわれます。

登城路の入口には、大手門と脇櫓(わきやぐら)がありました。それらは昭和初期に国宝に指定され、仙台城の象徴となっていましたが、1945(昭和20)年の仙台空襲で焼失。のちに隅櫓は再建されたものの、今もまだ大手門は再建されていません。

仙台城が完成したのは1602(慶長7)年。伊達政宗が入城したのは、1603(慶長8)年でした。

仙台城を離れた伊達政宗の晩年と若林城

伊達政宗は晩年になると若林城を築いて、1636(寛永13)年までの8年間をそこで過ごしました。

伊達政宗の死後、二代藩主・忠宗は登城路入口の奥に二の丸を築き、1639(寛永16)年に完成。幕末まで政務はそこで行われました。若林城は解体され、その建物も二の丸に移されました。

仙台城本丸は急峻な坂を登った青葉山の頂上にあるため、毎日の政務を行うには不向きだったのでしょう。二の丸の完成は、戦国の荒々しい世が去り、ようやく平穏な時代が訪れたことを感じさせます。

国土地理院色別標高図を元に作成

要害上に建てられた仙台城と、晩年の政宗が住んだ若林城。若林城下にも、新たに町がつくられました。

【日本のお城と武将⑥:長野県】上田城と真田昌幸

垂直にそそり立つ、千曲川の段丘崖に守られた上田城。周囲の河川の流れを変えて外堀とするなど、自然を味方につけた城づくりは鉄壁を誇ります。

2度にわたって徳川軍を跳ね返し、その名を世に知らしめた上田城。1583(天正11)年に真田昌幸(さなだまさゆき)によって築かれたこの城での防衛戦は、真田家の知略に長けた戦いを現在に伝えています。

上田城の地形を活かした徳川軍との戦い

1585(天正13)年、真田昌幸は対立する徳川の軍勢約7000を2000に満たない兵力で迎え撃ちました。第一次上田合戦と呼ばれるこの戦いでは、おびき寄せられるように徳川軍が城下に迫ると真田昌幸が大手門から一気に反撃。真田昌幸の長男・信幸(のぶゆき)らが横槍を入れ、徳川軍は新川まで追いやられました。折からの増水で溺れる者が続出し、死者は真田軍約40人に対し徳川軍は1300人余。真田軍の大勝となったのです。

1600(慶長5)年の第二次上田合戦では、徳川秀忠率いる3万8000の大軍をわずか3000ほどの兵で撃退します。城内から討って出ては引き、引いては討って出てと小競り合いを繰り返して防衛。時間ばかりが過ぎるなか秀忠は攻略を断念しました。

これには真田の戦略に加えて、堅牢な城構えが重要な役割を果たしています。その最たるものが、河岸段丘の段丘崖です。上田城南西は千曲川の分流である尼ヶ淵(あまがふち)に面しており、高さが10mにも及ぶ垂直な崖が敵兵を寄せ付けなかったのです。

上田城は地形も地質も城づくりに最適な場所

市街地を中心に形成されている上田盆地は、上流から運ばれた土砂が堆積してできた谷底平野です。約2万8000年前、地殻変動で陥没し湖の底だったこの地域では、砂礫(されき)や泥が溜まり湖成層(こせいそう)を形成。続いて起こった地殻変動で狭窄部に割れ目が生じ、湖から水が流れ出して干あがり川が流れるようになりました。下流側の盆地の端、小泉にある半過岩鼻(はんがいわばな)と呼ばれる奇岩(岩壁)には幅・高さとも40m超の大穴が開いています。これは千曲川の侵食によってできたもので、現在の千曲川よりも随分高い位置で侵食を受けていることから、時代とともに川床が下降したと想像できます。

礫などからなる河成堆積物が堆積したのち、上田泥流堆積物と呼ばれる火山砕屑物が現在の市街地一帯を覆っていました。これは約2万4300年前、浅間山の外輪山である黒斑山(くろふやま)の噴火にともなって山体崩壊を生じ、火砕流が発生した際に、その一部が千曲川に流入し、泥流となって上田盆地まで達したのです。この上田泥流層が、千曲川による侵食を受けて段丘地形が形成され、自然の要害が生まれたのです。しかも、上田泥流層は水を通しにくく、柔らかいのに崩れにくい特徴をもちます。それゆえ、掘削が容易で、水を通しにくいから塀を簡単につくることもできました。地質的に城づくりには最適な土地だったのです。

上田城周辺の地形

真田昌幸の上田城は、上田盆地の北壁をなす太郎山(標高1160m)を背に、千曲川沿いの低地に比べ約12m 高い段丘上にあります。段丘崖に沿うように本丸や二の丸、三の丸が築かれているのがわかるでしょう。また、農業や生活用水にも使われた矢出沢川や蛭沢川は、外堀の役目を担っていました。なお、真田昌幸の上田城は、関ヶ原の戦い後に破却され、江戸時代初頭に仙谷忠政が再建。また、明治期には廃城となり解体が進められましたが、現在ではいくつかの遺構が復元されています。

上田城跡

住所
長野県上田市二の丸
交通
JR北陸新幹線上田駅から徒歩15分
料金
大人500円、高・大学生300円、小・中学生150円、未就学児無料(入館料は市立博物館、櫓、共通、20名以上の団体は割引あり、障がい者本人と同伴者は大人60円・大学生以下無料)

【日本のお城と武将⑦:埼玉県】鉢形城と長尾景春

【日本のお城と武将⑦:埼玉県】鉢形城と長尾景春
画像:PIXTA

鉢形城(はちがたじょう)(大里郡寄居町)は、1476(文明8)年に長尾景春(ながおかげはる)が築城したと伝えられています。

荒川とその支流の深沢川の合流する付近、約100mの断崖の上という立地は、まさに「難攻不落」と呼ぶにふさわしい天険の要害です。また、秩父から雁坂峠(かりさかとうげ)を越えれば甲府に至り、鎌倉街道の上道(かみつみち)から上野(こうずけのくに)国を経由すれば越後国(えちごのくに)や信濃国(しなののくに)へと向かうこともできます。

このように鉢形城は、今にいう北関東と南関東、北越、甲信地方を結ぶ交通の要衝でもありました。きわめて重要度の高い場所であり、軍事的手腕に長けた長尾景春がこの地に城を築いたのは正鵠(せいこく)を射た判断といえるでしょう。

国土地理院標準地図(タイル)を基図に、各種資料を参照し作成

鉢形城跡では現在も本曲輪や二の曲輪のほか、馬出や空堀、土塁などが確認できます。地形図を見てのとおり、城の北側は荒川の断崖、南〜東側は深沢川によって深い谷が刻まれています。

鉢形城を築いたとされる権力者・長尾景春

長尾景春は上野白井城(しろいじょう)(群馬県渋川市)の城主で、白井長尾氏の5代当主です。白井長尾氏は長尾景春の祖父と父の代に関東管領・山内上杉氏の家宰(かさい)を務め、関東管領の補佐役として大きな権力をもっていました。

ところが、長尾景春が家督を継ぐ段になると、山内上杉氏の当主・顕定(あきさだ)は、長尾景春の叔父の長尾忠景(ただかげ)(総社(そうじゃ)長尾氏)に家宰を継がせてしまいます。長尾景春はこの裁定を不服に思い、鉢形城を拠点とし、主君・上杉顕定に対して反旗を翻しました。これが「長尾景春の乱」です。

このとき上杉顕定は、上杉定正(さだまさ)(扇谷上杉氏)とともに古河公方を攻めている最中でした。長尾景春は五十子陣(いかっこじん)(本庄市)の顕定・定正軍を背後から急襲して大勝利を収め、顕定と定正は上野国へと落ち延びていくことになります。

長尾景春の反乱には、相模国、武蔵国、上野国などの多くの武士が呼応しました。とりわけ、豊島氏(東京都練馬区)が長尾景春に味方したことにより、上杉勢は江戸城と河越城・岩槻城の連携が断たれてしまい、形勢は景春方に傾くかに見えました。

鉢形城の陥落と太田道灌の活躍

このとき上杉方で活躍したのが太田道灌(おおたどうかん)です。太田道灌は扇谷上杉氏の家宰で、江戸城を築城したことでも有名。道灌の築いた江戸城の濠は、現在でも皇居の「道灌濠」として名を残しています。

長尾景春が反乱した当初、太田道灌は駿河へと出兵している最中でした。すぐさま関東に戻った道灌は、豊島氏を下して五十子陣を奪回し、景春を鉢形城に追い詰めました。

長尾景春は古河公方の協力を得て太田道灌に対抗しましたが、ついに鉢形城は陥落。日野城(ひのじょう)(秩父市)まで撤退を余儀なくされ、さらに、日野城落城後は武蔵国を追われてしまいます。

鉢形城は何度も歴史的な争いの舞台となった

やがて、古河公方が両上杉氏と和睦し、関東での争乱は収まったかに見えました。しかし、数年後に両上杉氏が決裂し、両家の抗争が始まります(長享(ちょうきょう)の乱)。こうした混迷は、相模国の伊勢宗瑞(いせそうずい)(北条早雲)の関東進出を招くことになるのでした。

かくして、戦国時代の鉢形城は後北条氏が支配しました。北条氏邦(うじくに)が城下町を整備し、上杉謙信や武田信玄の来攻にも耐え、「難攻不落」ぶりを見せつけたのでした。

【日本のお城と武将⑧:大阪府】千早城・赤坂城と楠木正成

【日本のお城と武将⑧:大阪府】千早城・赤坂城と楠木正成

鎌倉時代末期の名将として名高い楠木正成(くすのきまさしげ)の居城として築かれたのが、赤坂城(あかさかじょう)と千早城(ちはやじょう)です。いずれも千早赤阪村(ちはやあかさかむら)の金剛山(こんごうざん)近辺につくられた山城です。

このうち赤坂城は2つあり、上赤坂(かみあかさか)にあった城が「上赤坂城」、森屋(もりや)の城は「下赤坂城」と呼ばれています。楠木正成は上赤坂城を本城として使い、下赤坂城はその盾となる支城となっていました。

1331年、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府の討伐を決意すると、楠木正成もこれに呼応して赤坂城で挙兵しました。

下赤坂城での戦いでは幕府軍に敗れましたが、焼死を装って山中に逃げると千早城を築いて抵抗をはじめ、下赤坂城を奪還します。約2カ月後にふたたび幕府軍と戦うと、100日もの激闘の末にこの城を守り抜くことに成功したのでした。

楠木正成の知略と千早城の地形

当時の様子を描いた軍記物語『太平記』によると、楠木正成の軍勢はおよそ1000。対する幕府軍は100万と記されています。実際には幕府軍は数万程度だったようですが、それでも兵力差は10倍以上もあります。この劣勢をくつがえせた要因は城の地形と正成の知略です。

千早城が築かれたのは標高約674mもの高所。城の三方は深い峡谷に囲まれているなど、非常に攻め難い構造になっています。そして、城内には水不足に備えて複数の井戸を掘り、上・下赤坂城との間に複数の連絡網を構築して幕府軍を迎えます。楠木正成は山中の地形を効果的に利用したのです。

楠木正成の赤坂城降伏と千早城の守り

楠木正成の赤坂城降伏と千早城の守り

各城は、数万の敵兵を森に人形を置いておびき出し、山中からの奇襲攻撃を加えます。城に接近した敵には大木や岩を落とし、はしごで登ってきた兵には熱湯や油をかけるなど、高低差を活かしたあの手・この手をくり出し、幕府軍を大いに翻弄しました。

赤坂城は奮戦むなしく1333年閏2月に降伏しますが、千早城の守りは固く、幕府軍は自然の地形を利用した奇襲戦法に苦しめられました。

楠木正成の最期と城跡の現在

やがて全国各地で討幕軍が蜂起すると、反乱鎮圧のために幕府軍は千早城から撤退します。こうして楠木正成は、山岳を利用した籠城戦で何倍もの敵に勝利したのです。

ちなみに、鎌倉幕府が朝廷の軍に攻め落とされるのは、この勝利から約2週間後のことでした。楠木正成の奮闘もあって、「今こそ鎌倉幕府を倒すべし」と後醍醐天皇に味方する勢力が拡大したわけです。

その後、赤坂城と千早城は南北朝の動乱で焼け落ちてしまい、正成も1336年の湊川(みなとがわ)の戦いで足利尊氏に敗れて自害しました。しかし、城跡は今も残っており、国の史跡に指定されています。

楠木正成の最期と城跡の現在

千早城跡

住所
大阪府南河内郡千早赤阪村千早
交通
南海高野線河内長野駅から南海バス金剛山ロープウェイ前行きで35分、金剛登山口下車、徒歩30分
料金
情報なし
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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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