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日本在来馬の「能登馬」とは?~将校軍馬として重宝されていた優秀馬~ 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日:2022年5月10日

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日本在来馬の「能登馬」とは?~将校軍馬として重宝されていた優秀馬~

現存する日本在来馬は8種のみで、絶滅が危ぶまれるほど個体数が減少しつつあります。
かつては能登でも馬産がおこなわれ、優秀な馬が生産されていました。

日本在来馬の1種「能登馬」とは

近世、馬は人々の暮らしとともにありました。乗馬としてはもちろん、荷を運ばせる駄馬、耕運や運搬をさせる農耕馬として、日々の暮らしにおいて活躍しました。そのため、幕府や藩は馬の飼育や改良に力を注いだといいます。

古来より、能登は馬産地として名馬を輩出してきました。なかでも鳳至郡柳田村(ふげしぐんやなぎだむら)(現・鳳珠(ほうす)郡能登町)を中心に生産された能登馬は、頑強な体と温厚な性格であったといいます。

能登馬は主に4種類に大別されます。鳳至郡宇出津(うしつ)(現・鳳珠郡能登町)の「梅木馬」、鳳至郡町野(現・輪島市町野町)の「鈴の馬」、そして羽咋郡富来(現・羽咋郡志賀町)の「高田馬」に加え、柳田村で生産された「虎松馬」は特に優秀な馬として知られたようです。

日本在来馬の1種「能登馬」とは

能登には馬産地が点在し、なかでも鳳至郡は最も多くの馬を産出していました。

能登馬の始まりと竹内虎松

明治時代、柳田村には15代竹内虎松という政治家がいました。勝海舟に師事した後、県会議員を経て衆議院議員に当選して活躍した人物です。

地元の鉄道事業や殖産興業に力を注ぐ一方で、馬産にもただならぬ情熱を注ぎました。この虎松が在来血統を改良した馬が「虎松馬」と呼ばれ、優秀な使役馬として、関西や中京地方にも売られたようです。

能登馬の歴史と優秀さ

虎松が明治42(1909)年に残した文書では、13代虎松の口述による歴史が綴られており、8代虎松の頃に関して、「頭に角のある1頭の牝馬が生んだ子はすべて良馬だった」と記されています。その牝馬が生んだ馬は青毛(濃い青味を帯びた黒の毛色)が多く、性格は温順だが、重い荷物を背負って石を踏んでも蹄がまったく傷まなかったといいます。

もともと馬産の歴史が受け継がれていた竹内家では、「馬の飼育は豆よりも人の足跡」という祖先の遺訓が残り、馬の個性をよく観察し、正しく懇切に愛育するという方針が代々受け継がれました。種牡馬は特にこだわらず良い馬を選び、牝馬の血統を大事に守っていたようです。その甲斐あってか、竹内家の馬産史においては不受胎や難産、死産がほとんどなく、どの馬も長命であったとも記されています。

『旧柳田村史』によると、能登馬の生産が盛りを迎えたのは日露戦争の頃。旧陸軍第9師団の将校用軍馬の大半に能登馬が充てられたというから、その優秀さは折り紙付きだったようです。

能登半島の珠洲で活躍した柴馬

一方、能登半島の先端、珠洲(すず)では「柴馬」と呼ばれる馬が活躍しました。珠洲には、江戸時代より始まった「揚げ浜式製塩」の伝統があります。砂浜にある塩田に海水を撒き、塩分を濃縮させた砂を海水でさらに漉し、塩分の高い鹹水(かんすい)を作り、それを大釜で煮るという製法です。

珠洲では、塩焚きに必要な塩木(薪)を得やすいことから製塩が盛んになりましたが、この塩木となる柴や雑木を山から海へと運んだのが柴馬でした。能登馬より小柄で、灰色を帯びた鹿毛(かげ)馬(茶色だが、長毛と四肢の下部は黒)が多かったといわれます。

農家の半数が1~2頭の柴馬を飼っていたという記録が残っており、そのうち農民以外の稼ぎ人の割合は塩田に関わる者が半数を占めました。

昭和初期に製塩業が廃止になると、馬の数は激減。昭和12(1937)年時点で残っていた18頭を軍馬として送り出したのを最後に、珠洲から馬の姿は消えてしまいました。

珠洲に残る馬と付く地名

珠洲には、馬と付く地名が今も残ります。鳳至、珠洲の郡境に位置した馬渡(まわたり)地区は、中世、街道筋の要衝でした。地名辞典にその由来は不詳とありますが、ここから山1つを隔てた能登町には駒渡(こまわたり)という地区があり、駒が子馬を意味することから、かつてはともに馬産地だったのではないかと考えられています。

また、馬緤(まつなぎ)という地名も残ります。源義経が奥州落ちの際に能登を経由したといわれますが、この地区の浜に馬をつないだことに由来するという説があるようです。

ちなみに、この馬緤にある常俊(つねとし)家で馬のものといわれる角が受け継がれているのも興味深いです。地名の確かな由来を知る由もありませんが、馬との深い結びつきがあったことは明白です。

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