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名族宇都宮氏の栄枯盛衰~宇都宮氏の依頼で『小倉百人一首』はできた?~ 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月22日

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名族宇都宮氏の栄枯盛衰~宇都宮氏の依頼で『小倉百人一首』はできた?~

平安時代後半から室町末期まで、400年以上にわたって宇都宮周辺を支配した豪族・宇都宮氏は、『小倉百人一首』の成立にも関わった文化人武士の一族でした。

宇都宮氏とは?

中世の下野(しもつけ)を代表する名門武士団のひとつが、現在の宇都宮市を本拠とした宇都宮氏です。来歴には諸説ありますが、平安時代に権勢を誇った藤原道長の兄である、道兼をルーツとする説が多くあります。道兼の曾孫・宗円は、11世紀に東北地方で起こった前九年・後三年の役に際し、朝廷軍に従って宇都宮を訪れ、宇都宮明神(現在の宇都宮二荒山神社)の座主となったとされます。

宇都宮氏は源平の合戦で源頼朝に従い奔走

宗円の孫である3代朝綱(あさつな)は、神社の名前から宇都宮を名字とし、源平の合戦では源頼朝に従い奔走。その功績により朝綱は、源頼朝から改めて宇都宮社務職の地位を安堵(あんど)され、伊賀国壬生(みぶ)野の郷の地頭職を与えられるなど、御家人としての立場を固めていきました

宇都宮氏の立場が不安定だった鎌倉幕府成立初期

ところが1194(建久5)年、朝綱は下野の国司から訴えられ、自らは土佐(とさ)へ、跡継ぎの孫である頼綱(よりつな)は豊後(ぶんご)へと流罪となります。その後、一族の罪は許され朝綱は下野に戻りますが、家督を頼綱に譲り出家して隠居。本拠地である宇都宮から離れた大羽(おおば)(現在の益子町)で隠棲し、その生涯を終えます。1205(元久2)年、今度は頼綱に謀反の疑いがかけられますが、出家して幕府への忠誠を示し、事なきを得ます。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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