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集成館が築いた近代産業の礎~製鉄、造船、紡績など島津斉彬が推進した事業~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月22日

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集成館が築いた近代産業の礎~製鉄、造船、紡績など島津斉彬が推進した事業~

薩摩藩主・島津斉彬のもと、地産の原料と在来技術、西欧の知識を融合し、日本産業の近代化を牽引。
博物館「尚古集成館」にはその歴史が息づいています。

集成館とは

江戸時代、支配下の琉球王国を通じて中国と交易を行ってきた薩摩藩。ほかの地域に先駆けて海外の物資や情報が流入するとともに、1840年代から西欧列強の脅威にさらされました。

危機感を強めた11代藩主・島津斉彬(なりあきら)が推進したのが富国強兵・殖産興業政策「集成館事業」です。島津家別邸「仙巌園(せんがんえん)」(鹿児島市)の敷地で竹林を切り開き、製鉄、造船、ガラス、紡績、食品加工、印刷など、多分野で近代化事業を推進。最盛期には約1200人が働いていたといわれています。

島津斉彬の製鉄事業への注力

力を注いだのは鉄製大砲を鋳造する製鉄事業。燃料の炎をアーチ状の天井に反射させ、その熱で鉄を溶かし、鋳型に流し込む反射炉を、オランダの本をたよりに建設しました。土台には約50万年前の吉野火砕流(よしのかさいりゅう)でできた溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)「たんたど石」を使用(諸説あり)。城の石垣づくりなどで培われた、在来の石工(いしく)技術を駆使して精巧に組み上げました。空気を大量に取り込む煙突には、薩摩焼の技術で焼成した耐火レンガを使いました。

反射炉に銑鉄(せんてつ)を供給する溶鉱炉もオランダの本を参考に1854(安政元)年、日本初の洋式高炉を建設。鋳造した砲身に穴を開ける鑽開台(さんかいだい)の動力は水力で、仙巌園の裏山に水路を張り巡らし、水車の回転を利用して鋼製のきりでくり抜きました。反射炉は一度失敗したものの、1857(安政4)年に2号炉が完成し、大砲製造に成功しました。

原料は地元の砂鉄。鹿児島は九州砂鉄鉱業発祥の地である種子島(たねがしま)、屋久島(やくしま)のほか、古くから砂鉄採取が盛んで、鹿児島湾、東シナ海、志布志(しぶし)湾の海岸線に点在する鉱床から採取した良質な砂鉄を利用できました。

島津斉彬の製鉄事業への注力

指宿(いぶすき)から頴娃の海岸線や志布志地域は砂鉄採取が盛んで、集成館の高炉製鉄の原料に使用されました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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