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富山の歴史~成立までの複雑な変遷は呉東と呉西の違いにも影響? 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月21日

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富山の歴史~成立までの複雑な変遷は呉東と呉西の違いにも影響?

かつては能登国が属していたこともある越中国。江戸時代には富山藩領と加賀藩領が併存し、明治の廃藩置県では一部が金沢県、残りは富山県となるなど、複雑な歴史を辿ってきました。

富山の歴史①:旧石器時代の出土品も

富山県では旧石器時代の出土品が確認されているため、この時代から人類は富山の地で暮らしていたと考えられています。3世紀末~4世紀にヤマト政権が誕生し、列島支配が強化され始めた頃、北陸一帯は越(こし)(「古志」や「高志」とも書かれています)と呼ばれ、7世紀にはヤマト政権の支配下にあったようです。

律令国家が成立した7世紀後半、越前・越中・越後の3国に分かれたと推定されます。越中となったのは、射水(いみず)・砺波(となみ)・婦負(ねい)・新川の4郡。後に約15年間能登国が越中国に属する時期はあるものの、4郡から成る越中国は、すでに現在の富山県とほぼ同じ領域でした。国府は射水郡(現・高岡市伏木)に置かれ、ここに越中守(えっちゅうのかみ)となった大伴家持がいたことはあまりにも有名でしょう。

7世紀末。越の国が3分。

天平13(741)年、能登が越中に編入され、またすぐに分離。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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