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奥山荘をめぐる和田氏一族の争い~勝訴のきっかけとなった『波月条絵図』とは? 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月15日

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奥山荘をめぐる和田氏一族の争い~勝訴のきっかけとなった『波月条絵図』とは?

中世の越後国に成立した荘園・奥山荘は、三浦和田氏の所領でした。この三浦和田氏における所領相続問題の最中に『波月条絵図』は生まれます……。

奥山荘とは

平安時代の新潟県域では、常陸平氏(ひたちへいし)の流れを汲む城氏(じょうし)(越後平氏)が勢力を拡大しました。その城氏が開発したのが奥山荘(おくやましょう)です。奥山荘は、越後国蒲原郡にあった荘園(しょうえん)で、現在の新発田市加治川地区、胎内市、岩船郡関川村にまたがる広大な摂関家(せっかんけ)領でした。

奥山荘は城氏没落のあとは和田氏へ

城氏が建仁(けんにん)の乱(1201年)で没落したあと、奥山荘の地頭職(じとうしき)に補任されたのが和田氏でした。和田氏はもともと相模国(さがみのくに)三浦(神奈川県三浦市)の豪族で鎌倉幕府の有力御家人でしたが、源頼朝の死後、徐々に幕府の実権を掌握していった執権北条氏と対立します。
1213(建暦3)年には幕府に反乱を起こしますが、鎮圧されて一族は滅ぼされます(和田合戦)。しかし、奥山荘を領した和田氏の庶流は北条方に味方していたため、所領が安堵されました。以降、奥山荘は三浦和田氏によって継承されていきます。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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