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御館の乱が勃発!上杉謙信没後に上杉景虎と長尾景勝ふたりの養子に起こった家督争い 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月15日

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御館の乱が勃発!上杉謙信没後に上杉景虎と長尾景勝ふたりの養子に起こった家督争い

上杉謙信によって上杉氏は一大勢力を築きます。しかし、謙信の没後に後継者争い(御館の乱)が勃発。戦国時代後期に越後国内は大きく揺れました。

御館の乱勃発の背景:長尾景虎は上杉憲政の養子となり関東管領を引き継ぐ

長尾景虎(かげとら)(上杉謙信)が越後国主となってからも、しばらくは越後国内で紛争が続きます。その調停に精神的に疲れ果てた長尾景虎は、1556(弘治2)年には高野山に出家して隠居すると言い出します。家臣の説得で思いとどまりますが、それほどまでに越後国内はまとまりに欠けていたのです。
この頃、関東では相模国小田原(神奈川県小田原市)の後北条氏が台頭し、関東管領や古河公方といった関東の諸族を圧迫していました。北条氏康(うじやす)に敗れた関東管領・上杉憲政(のりまさ)は越後国へと落ち延び、長尾景虎の庇護を受けます。このときに上杉憲政は長尾景虎を山内上杉家(関東管領家)の養子にしました

長尾景虎は上杉景虎に改名

越後と北信濃との国境で甲斐武田氏と対峙するいっぽう、上杉憲政の要請を受け、長尾景虎は三国峠を越えて関東へと出兵。沼田城(群馬県沼田市)をはじめ関東の北条方の城を次々と攻め落としていき、1561(永禄4)年には小田原城を包囲します。
その際に長尾景虎は鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)で山内上杉家の家督と関東管領職を正式に譲り受け、上杉政虎(まさとら)と名を改めます(のち出家して「不識庵(ふしきあん)謙信」と号す)。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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