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日満航路が日本と満州を結ぶ窓口となったことで空襲の標的となった新潟県域 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月15日

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日満航路が日本と満州を結ぶ窓口となったことで空襲の標的となった新潟県域

傀儡国家である満州国が建国後、新潟港は日満航路の指定港となりました。戦時下の新潟は日満航路の指定港として重要性を高めていきました。

日満航路開通時の時代背景と新潟県

1930(昭和5)年、前年に起きた世界恐慌の煽りを受け、日本でも昭和恐慌が起きました。農産物の価格は急落し、不況の波は農村を直撃します。新潟県の農産物生産総額は1929(昭和4)年には1億円を超えていましたが、不況突入後の1931(昭和6)年には6000万円台にまで落ち込みます。この不況を機に新潟県は大幅に変容していきました。

日満航路が開通し日本と満洲国とが繋がる

ちょうど同じ時期に新潟県には上越線が全通し、東京と新潟が直結しました。さらに同年には満州事変が勃発し、日本は「十五年戦争」と呼ばれる長い対外戦争期に突入します。翌1932(昭和7)年に満州国が建国されたことを受け、新潟港から朝鮮半島や満州(中国東北部)への日満定期航路が開設されました。満州側では首都・新京(中国吉林省長春)に接続する鉄道路線が整備され、新潟を経由することで、日本と満州の首都を結ぶルートが確立しました。

工場誘致によって落ち込んだ経済の復帰を図る

また、新潟には理化学研究所が進出し、理化学興業(現在のリケン)を設立します。同社の柏崎工場は関連会社を含めると62社にまで発展。新潟県は1934(昭和9)年に「工場課税特免条例」を制定して工場誘致を行います。その結果、新潟県内には続々と工場が建設され、戦争の長期化にともなう軍事物資の増産需要に応じていきました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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