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【南部と津軽の争い】暗殺未遂、戊辰戦争、藩境争いと度重なる紛争は大政奉還後まで続く 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月15日

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【南部と津軽の争い】暗殺未遂、戊辰戦争、藩境争いと度重なる紛争は大政奉還後まで続く

江戸時代の青森県域は、おもに盛岡藩と弘前藩によって支配されていました。遺恨のある両藩は対立を深め、たびたび紛争を起こしていくのでした。

江戸時代の青森県域は南部氏の盛岡藩系と津軽氏の弘前藩系

江戸に幕府が開かれた当初の青森県域には、盛岡藩と弘前藩が存在しました。南部氏の盛岡藩10万石は陸奥国北部の太平洋側を領有し、藩庁は盛岡城(岩手県盛岡市)に置かれました。津軽氏の弘前藩4万7000石は陸奥国北部の日本海側を領有し、藩庁は弘前城(弘前市)でした。

盛岡藩では1664(寛文4)年に3代藩主・南部重直(しげなお)が後継者を決めずに没したため、重直の弟・重信(しげのぶ)が盛岡藩を後継し、次弟の直房(なおふさ)に2万石を与えて八戸藩として独立させました。弘前藩では1656(明暦2)年に2代藩主・津軽信枚(のぶひら)の次男の信英(のぶふさ)が5000石を分知され、支藩として黒石(くろいし)藩が立藩し、のちに1万石の外様大名となります。江戸時代を通じて現在の青森県域には、以上の4藩が成立したのでした。

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