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縄文時代:縄文人のルーツ、身体的特徴、言語

日本独自の縄文文化は、旧石器時代に複数回にわたり渡来した人々により生まれました。

縄文文化の担い手となった縄文人。その祖先にあたる人々は、旧石器時代の4万年から3万8000年前に日本に渡来してきたと考えられています。
渡来ルートは朝鮮半島から北部九州へ至る西回りルート、シベリアから樺太(からふと)を経由して北海道へと至る北回りルート、同じくシベリアから南下して朝鮮半島を経て日本へ至るもうひとつの北回りルート、そして南西諸島を北上する南回りルートの4つが推定されており、石器の交代などから、時期を変えて複数回にわたって渡来してきたと考えられています。

縄文時代を生きた人々の特徴

縄文時代の人々は、どのような外見をしていたのでしょうか。これについては、出土した6000体以上の人骨からある程度知ることができます。

平均身長は男性約162㎝、女性は約149㎝と比較的低く、筋肉質の頑丈な体形で、相対的に上腕と脛骨(けいこつ)(すねの骨)が長かったようです。顔は顔高が低く丸顔。彫りが深くて鼻が高くエラが張っていました。歯は上下が合わさるタイプで、デンプン質の食が多かったのか虫歯が多く見られます。

最新の科学分析から、縄文人は東南アジア、シベリアの人々と同じルーツを持っていたようです。
現代人の平均身長:(男性)172㎝ (女性)159㎝
縄文人の平均身長:(男性)162㎝ (女性)149㎝
※縄文人の身長は 最新の研究による。

縄文時代の言語とは!?

縄文時代の文字は確認されていませんが、縄文人は現代人と同じホモ・サピエンスですから、私たちが話しているような言葉を使っていたと思われます。また、土器に見られる特徴的な文様や、土器の形の分布の仕方を見ると、地域単位でまとまることが多いことから、恐らく方言のような地方差もあったと考えられます。

一方で、縄文人は広範囲にわたる交易を行なっていましたので、共通する言語があったことも確実視されます。このような共通言語の文法や単語にどのようなものがあったのか不明ですが、縄文文化とつながりの強いアイヌや、古琉球(こりゅうきゅう)の言語に、その一部が残されているとも想定されています。

縄文文化の要素をみると、竪穴住居は北方系、高床式の建物は南方系ともいわれています。言葉も南北で混在していたのでしょうか?

縄文時代:時代ごとに進化する縄文土器

縄文土器は歴史的に大きな役割を果たしました。煮炊きができるようになったため、食べることのできる動植物の量と種類が格段に増え、定住生活を可能としたのです。

土器は地域性や時代ごとに特色があるため、縄文縄文土器は中期にかけて派手に多様化した時代の時代区分の基準ともなりました。その文様は縄文人の精神世界を表わし、彼らの思想を知る貴重な資料です。

土器の形も定住生活の浸透とともに、時代や地域ごとに特色を出しながら多様化していきました。古い時代は底の尖った尖せん底てい土器が中心で、地面に挿して使っていましたが、次第に貯蔵に適した平底が主流となりました。また、煮炊き用の深鉢形土器を基本とし、前期に浅鉢形が加わると、中期に地域差が大きく広がりました。やがて後期の東日本では注口土器が普及し、さらに祭祀に使われた装飾性の高い精製土器と、ほぼ煮炊き用の縄目模様入りの簡素な深鉢形の粗製土器に分かれていきました。一方西日本では、後期以降、シンプルな形をした深鉢形が中心となりました。

縄文土器の特徴の縄目は何のため?

煮炊き用の道具として登場した縄文土器にはもうひとつ、祭祀の道具としての役割がありました。縄文土器は日常生活と祭祀が不可分な面がありました。有名な火焔型土器は、この両面を持ち合わせていたと考えられます。
では縄文人はなぜ縄目にこだわったのでしょうか?滑り止めという機能説のほか、蛇をモチーフにしたとする説、土器のなかに精霊を閉じ込めようとした結縛信仰に由来する説などがあります。また、土器を回してみると、物語性がみられる作例もあります。縄目模様にも何か物語が隠されているかもしれませんが、詳細は不明です。

縄文時代中期には、土偶の描かれた土器が登場

一方で土器には縄目以外にも様々な文様が施されていました。前期までは縄文、撚糸文(よりいともん)、押型文(おしがたもん)、貝殻文など反復する簡単な図形が中心でしたが、中期にはS字状の曲線や土偶をモチーフにしたものなど、複雑性が増していきます。

土偶を描いたものは女性の出産シーンを示唆したものともいわれています。さらには描くどころか土偶と土器が融合する傾向も見られるようになります。可塑性(かそせい)の高い粘土で作られた縄文土器は、縄文人の観念や世界観を表現する格好の媒体だったといえるでしょう。
縄文中期の地域色豊かな土器。縄文土器にはさまざまな種類があります。

縄文時代:発達した加工技術による石器・骨角器

縄文時代の道具といえば縄文土器が真っ先に思い浮かびますが、この時代の石器、骨角器も忘れてはいけません。縄文人は石材加工技術を進歩させ、ナイフや磨り石を開発することにより、石器や骨角器も飛躍的に発達していきました。

狩猟にも弓矢が使われていましたが、漁労、採集もすべてを素手で行なうのは難しく、また料理を作る際にも道具は必要不可欠です。縄文人は土器のほかにも様々な生活に必要な道具を作り出していました。

縄文時代に飛躍的に進化した石器

旧石器時代から受け継がれた石器は、新しい石の加工技術によって、飛躍的に発達していきます。旧石器時代の細さい石刃(せきじん)(槍を作る部品として用いられる小さな石刃)に代わり石鏃やつまみの付いた万能ナイフである石匙(いしさじ)などが登場しました。とくに石匙は弓矢とともに縄文時代を代表する道具となり、列島各地の遺跡から発見されています。
また、石皿磨石凹石(くぼみいし)敲石(たたきいし)など、植物を製粉する調理具のセットも開発されました。このほか、磨製石斧(ませいせきふ)は柄をつけて樹木の伐採や加工に、打製石斧は土掘具の刃先として用いられました。

縄文時代の骨石器

石器以外には、骨角器から釣り針や銛(もり)が作られました。
中期後半の遺跡からは、長さ10㎝以上の大型釣り針も発見されています。また、銛が刺さると銛頭が柄から離れ、銛頭に結んだ綱を引くことで銛頭が回転して獲物から外れなくなる仕掛けを施した回転離頭銛(りとうもり)も開発されています。また、すでにウルシも使われており、土器や木製品に塗っていたほか、接着剤にも使われたりしていました。

縄文時代:縄文人の家族形式

縄文時代の人々は、どのような家族構成で暮らしていたのでしょうか?やはり同じ竪穴住居に同居したのが家族と考えられます。当時の厳しい環境においてひとりで生きることは難しく、ほとんどの人が竪穴住居で家族と共に暮らしていたと考えられます。

ではその人数を割り出してみましょう。同居する人数は住居跡の面積(㎡)÷3(人が手足を伸ばした面積)マイナス1(柱などが占める面積)という式で計算されます。この式に当てはめると、一棟の竪穴住居の住人は、おおよそ5〜6人だったと考えられます。

縄文時代の家族は、婿入り婚が一般的だった?!

その家族形態については、草創期から早期にかけて女性の移動が少なかったと考えられることや、住居内からまとめて発見された家族とおぼしき数体の人骨で、熟年男性だけがほかの集団出身とされた千葉県の姥山(うばやま)貝塚の例などから、男性が婿に入って妻方に住む婿入り婚、あるいは男性の通い婚だったのではないかと推測されています。

縄文人の家族は両親とその娘と婿、子供たちという母系社会の構成が多かったのかもしれません。ただ東日本では、初期にどちらの実家に入るか選択的な傾向が見られ、後期中葉までに母系から嫁入り婚の父系社会へ移行したと考えられています。

縄文時代の家族にも、ペットがいた!?

縄文人も現代人と同じようにペットを飼っていました。現代はイヌ・ネコが主流ですが、ネコは当時まだ日本に入ってきてはおらず、ペットの多くがイヌだったとみられています。

イヌは野生のオオカミをルーツとしており、日本には西方から縄文人とともに日本列島へ渡ってきたと考えられています。縄文時代のイヌは、今のイヌより顔の凹凸が少ないのが特徴で、のちの弥生時代の頃に日本列島へ渡ってくる弥生犬と並び、柴犬などの日本犬の起源となりました。
縄文犬は、どのような見かけをしていたのでしょうか?少しずつ、その系譜が分かってきています。

縄文時代:縄文人の食料

縄文時代の食べ物は、私たちが想像するより豊かでした。縄文土器の多様化によって、さまざまな調理法が工夫されていったのです。まさに地産地消で食べる当時の食卓をのぞいてみましょう。

多様化した調理法によって生まれた縄文人の食卓には、どのようなものが並んでいたのでしょうか。縄文人の食卓の中心はクリ、クルミ、ドングリ類など多様な木の実と山菜でした。全国の遺跡から約40種類の植物が発見されています。

次いで多く食べられたのが1年を通じて一定の量が獲れる魚です。地域によって獲れる種類が異なり、東北地方の外洋はマグロやカツオ、マダイなど、内海ではクロダイやスズキ内陸部ではフナ、コイなどの淡水魚が中心でした。また春から夏にかけては貝も採集していました。

狩猟は主に冬に行ないました。弓矢や落とし穴などを使ってシカとイノシシを中心に、全国で60種以上の動物が食べられていたことがわかっています。これらの食生活は貝塚の出土品から推定したものです。
縄文人たちは獲物の獲れる季節や場所、美味しい時期などのサイクルを熟知し、食料の年間カレンダーを頭に入れ、それに沿って活動していたと考えられています。

縄文時代に生まれた様々な調理法

日本人の食習慣の原型は縄文時代にさかのぼるといわれています。縄文時代は旧石器時代以来の「焼く」という調理方法に加え、土器の発明によって、「煮る」、「長時間煮込む」という方法が可能になりました。

これによってドングリ類やトチの実などのアク抜きも可能になり、アク抜きした実の殻を凹石と叩き石や石皿と磨石を使って叩き割り、実をすりつぶして団子状にし、これを焼いたり煮たりして食べていたようです。また、煮炊きが可能になったことで、魚介や山菜を使った煮物やスープも作るようになりました。

縄文時代にはクッキーにハンバーグも?!

ほかにも貝を蒸したり、魚や獣の肉を串に刺して焼いたり、吊り棚に食材を置いて燻(いぶ)し、燻製にしたりと調理法はバラエティに富んでいました。
クルミやクリなどの粉からクッキーを、ミンチ肉と混ぜてハンバーグを作ったともいわれます。ヤマブドウや魚介のカキなどは生で食べることもあったようです。
味付けについては、があったほか、植物に関する知識が豊富な縄文人たちは、植物の組み合わせでどのような味になるかを知っていましたから、様々な組み合わせを試していたことでしょう。そのため、各家庭の味が生まれたのも縄文時代だったと考えられるのです。

調理の仕方や地域色のある食料を具体的に見ていきましょう。

縄文時代:縄文人のハレ着・装身具

縄文時代の土偶から、すでに普段着とは別にハレ着が存在していたことも指摘されています。土偶には渦文状や山形文状の模様が描かれていますが、縄文人も祭祀など特別な日にはこうした文様が縫い込まれたハレ着を着ていたと考えられているのです。

同様に土偶から縄文人の髪形も再現されています。男女ともに髪を長く伸ばし、特に女性においては、お団子状や三つ編み状など様々な形で束ねて結い上げた複雑な髪形があったようです。また、同じく土偶から、時には装飾用の櫛を挿したことがわかっています。
さらにハレの日には鉄や水銀から作った赤い顔料で顔に文様を描くなど、化粧を施す習慣もあったようです。

縄文時代の優れた布織技術

縄文人はすでに、ハレ着のようなデザイン性の高い衣服を編むまでに高度な編み物技術を身に付けていました。植物繊維を編み上げて布を作り出し、それを縫い合わせて自分たちで衣服を完成させていたのです。

また、木や竹、蔓などを編んでポシェットやカゴなども作っていたようです。これを編組(へんそ)といいます。三内丸山遺跡からはヒバの樹皮で編んだ「ポシェット」が出土しています。採集を行う女性たちは、編組製品であるカゴを下げていたかもしれません。
編み方としては主に縦材と横材を交互に編む「網代(あじろ)編み」と、縦材を横材に結び合わせていく「もじり編み」が確立されていました。

縄文時代のアクセサリー・装身具

縄文時代は様々なアクセサリーを身に着けていました。とくに代表的なのが耳飾りで、早期末から前期に登場し、短期間で全国に広まったようです。

最初は石で作った中国の玉器「玦(けつ)」に似た「玦状耳飾り」が作られていましたが、中期になると土製の耳飾りが中心となり、滑車形の耳飾りが主流になっていきます。耳飾りを専門に製作する職人がいた集落もあったようです。また、耳飾りのほかにも貝殻製の腕輪、シカの角で作った腰飾りや胸飾りなど、多様なアクセサリーが出土しており、縄文人の優れた美的センスがうかがえます。

このような装身具には、通過儀礼や社会的地位を表す意味がありました。どのようなものだったのでしょうか。

縄文時代:縄文人が残した数多くの貝塚

貝塚とは、古代の人々が貝殻や生活廃棄物を捨てた場所です。日本全国には約2400カ所の貝塚が確認されており、その約8割が縄文時代につくられたとされています。

千葉県は日本でも有数の貝塚の多い県で、県内には約500カ所が確認されています。全国の貝塚の2割が千葉県に存在しており、これが千葉を「貝塚の宝庫」と呼ぶ由縁です。そのうち約120カ所が千葉市に集中しており、なかでも代表的なのが加曽利貝塚(かそりかいづか)(千葉市若葉区)です。

加曽利貝塚ができたのは約5000年前以降のこと。加曽利貝塚の北貝塚は約5000年前の縄文中期に、南貝塚は約4000年前の縄文後期につくられたとされています。北貝塚は約1000年かけて徐々に使用されなくなっていき、その代わりとしてつくられ始めたのが南貝塚です。北貝塚と南貝塚を合わせると、その規模は日本最大級となります。

縄文時代の縄文海進との加曽利貝塚の関係

加曽利貝塚は、都川(みやこがわ)の支流である坂月川(さかつきがわ)を約2㎞遡った台地上にあります。現在の地形では、加曽利貝塚を「東京湾沿岸の貝塚」と呼ぶには、やや内陸にあるような印象を受けるかもしれません。しかし、当時はこの場所が沿岸部だったのです。

というのも、最終氷期終了後、日本で縄文時代を迎える頃は、世界的に温暖化が進んだ時期で、北半球の氷床がもっとも多く溶けて、現在よりも海水面が高くなっていました。これを「縄文海進(じょうもんかいしん)」と呼びます。そのピークは約6000年前で、今より海面が2~3mほど高かったと推測されています。

加曽利貝塚のある千葉市若葉区桜木8丁目あたりは、当時はもっと海に近く、東京湾(古東京湾)で漁をする住民にとっては、貝塚として利用しやすい場所だったわけです。

千葉市立加曽利貝塚博物館

住所
千葉県千葉市若葉区桜木8丁目33-1
交通
千葉都市モノレール2号線桜木駅から徒歩15分
料金
無料
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