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【徳川家康がしたこと】本能寺の変・伊賀越え、天正壬午の乱

徳川家康は、織田家中の内紛を横目に旧武田領へ勢力を拡大、武田旧臣を家臣に取り込んでいきました。

本能寺の変の際は、堺にいた徳川家康伊賀越えにより九死に一生を得て三河に生還します。その後、混乱に乗じて、土豪一揆で勢力の空白地帯となっていた武田遺領の甲斐および信濃の半国を手に入れました。三河、遠江(とうとうみ)、駿河(するが)と併せ5か国を領有したのです。

徳川家康は小牧・長久手の戦いで勝利するが…

本能寺の変での織田信長の死後、その後継者の座を手に入れた羽柴秀吉が、天下人への道を歩もうとしていました。これに不満を抱いたのが、織田信長の同盟相手で、5か国の太守でもある徳川家康と、信長の次男信雄です。徳川家康は羽柴秀吉に従うつもりはなく、信雄と連携をとりつつ天正12年(1584)、秀吉と小牧・長久手の戦いに突入します。

尾張の小牧山に本陣を置いた徳川家康は、戦線が膠着状態になるなか、秀吉が敢行した中入りの策を見破り、長久手にて池田恒興らを討ち取りました。しかし、その後秀吉が織田信雄と和睦してしまったため、徳川家康は戦いに勝利しながらも大義名分を失うこととなります。

徳川家康が時を待つ間にしていたこと

戦いののち、関白に就任した豊臣秀吉の外交攻勢を受けた徳川家康は、この時点で秀吉に抵抗することを断念します。天正14年(1586)10月、講和後、豊臣秀吉に臣従すると、以後、豊臣秀吉に忠実に従いつつ、「時」を待つことにします。

天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めでは先鋒を務め、戦後に命じられた関東移封にも家臣の反対を押し切って応じています。旧来の五か国を手放し、縁のない関東に移って江戸城を築いたのです。

こうした領地の拡大と移封の過程で、徳川家康は今川、武田、北条の遺臣を積極的に採用し、軍団の強化と領地支配に活用していきます

徳川家康はスカウトした今川・武田・北条の遺臣を介して、今川氏の伝馬制度を範とした流通システム、武田氏の鉱山経営・治水事業、北条氏の検地などの農業経営など、その領国経営を取り入れ、のちの幕藩体制のモデルとしました。

【徳川家康がしたこと】秀吉の死後~関ヶ原の戦い

慶長3年(1598)8月、天下人・豊臣秀吉は、幼い息子秀頼(ひでより)を擁して豊臣政権を盛り立てていくよう、五大老筆頭の徳川家康に繰り返し遺言し、62歳で病没します。

しかし、信長、秀吉の時代を生き残り、着実に力を蓄えてきた徳川家康に、このままナンバー2で終える気はありません。徳川家康は、朝鮮出兵の戦後処理を終えると、政権奪取に向けて動き出します。

徳川家康が満を持して動く!天下分け目の大決戦へ

徳川家康は、大坂城西の丸に入り、豊臣秀頼の後見となると、豊臣秀吉の定めた婚姻許可制を無視して伊達、福島、蜂須賀(はちすか)3氏と政略結婚を取り決め、前田利家らの問責にも居直ってみせました。

その後、反家康色を鮮明にしていた豊臣家の吏僚(りりょう)・石田三成を政権から排除し、政治の全権を握ったのです。

徳川家康は会津遠征を石田三成決起の誘い水にして、関ヶ原が始まる

こうして機が熟したと悟った徳川家康は大きな賭けに出ます。

慶長5年(1600)、軍備を増強した会津の上杉景勝を挑発すると、福島正則、黒田長政などの諸大名を率いて会津遠征を敢行します。自分が畿内を留守にすることで、石田三成と反家康派諸大名の挙兵の誘い水にしようとしたのです

果たして石田三成は挙兵し、全国の諸大名を東西に分けた関ヶ原戦役が始まりました。

小早川勢の裏切りが勝敗を分けた、関ヶ原の戦い

関ヶ原に集まった軍勢は、東軍約7万4000に対し、西軍8万4000。徳川秀忠(ひでただ)の軍勢3万8000は、信州上田で真田昌幸(さなだまさゆき)に足止めされ遅れていました。一方の西軍は、大津城や田辺城への攻撃のために兵力を割いたものの、兵力は多く、東軍を包囲する布陣となっていました。

しかし、戦いが始まっても、西軍の松尾山の小早川秀秋(こばやかわひであき)や南宮山の吉川広家(きっかわひでいえ)らが動きませんでした。すでに彼らは東軍に内通していたのです。そして、小早川秀秋が裏切りを決行。西軍に襲いかかり、東軍の勝利を決定づけたのです。

徳川家康は、関ヶ原へ至るなかで大量の手紙を諸大名に送っています。離反を促すものなど、現在知られているものでも169通。これが奏功したといえるでしょう。

【徳川家康がしたこと】征夷大将軍となり、江戸幕府を開府!

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、西軍方諸大名の領地を没収し、東軍大名に論功行賞(ろんこうこうしょう)として分配しました。豊臣家については、西軍の挙兵に無関係としながらも、領土を摂津・河内・和泉に限定し、200万石から65万石へと大幅に削減しました。豊臣家の蔵入地(直轄地)や鉱山を徳川領に取り込みます。

こうして実質的な天下人となり、豊臣家を弱体化させた徳川家康は、慶長8年(1603)征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いて新たな武家政権の主宰者となりました。
しかも徳川家康は2年で将軍職を息子の秀忠に譲り、徳川政権が続き、政権を豊臣家に返さないことを世に示してみせました。

豊臣家滅亡を虎視眈々とねらう、徳川家康

その上で徳川家康は豊臣家との決戦に備え、豊臣恩顧(おんこ)の大名に江戸城や駿府城(すんぷじょう)築城などの天下普請を命じ、その財力を削減させる一方、不敗の防衛体制を充実させていきました。また、淀殿ら豊臣家には寺社の造営を勧めて軍資金を浪費させながら、武力制圧の機会を探ります。

やがて豊臣家が奉納した方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)「国家安康 君臣豊楽」の文言に、徳川家康を呪詛(じゅそ)しているとして難癖をつけ、慶長19年(1614)11月に始まる大坂の陣にもちこみました。

【徳川家康がしたこと】大坂の陣~戦国の世を終わらせる!

慶長16年(1611)、徳川家康は豊臣秀頼と二条城(にじょうじょう)で会見します。秀頼が上洛するという形から、豊臣家の徳川家への従属が示されたものの、あくまで徳川家康は豊臣を滅ぼす機会を探っていました。

やがて3年が経過するなかで、加藤清正浅野幸長(よしなが)ら徳川家康を牽制できる豊臣恩顧の武将が世を去ると、徳川家康は豊臣覆滅(ふくめつ)に動き出します。

大坂冬の陣

方広寺の鐘銘(しょうめい)が徳川家康呪詛(じゅそ)にあたると豊臣家を挑発し、慶長19年(1614)12月、大坂冬の陣を開戦しました。

諸大名がすべて徳川方に参集したのに対し、大坂方には元大名の長宗我部盛親(もりちか)や真田昌幸の子・真田信繁(のぶしげ)(幸村)ら10万人の浪人が集まり籠城しました。とくに真田信繁が築いた真田丸は手強く、城を攻めあぐねた徳川家康は、大砲を撃ち込んで豊臣方の決定権を握る秀頼の母・淀殿を脅(おど)すと、外堀の破却を条件に講和に持ち込みます。

大坂夏の陣

老獪(ろうかい)な徳川家康はここで二の丸、三の丸の堀も埋めて大坂城を丸裸にすると、元和(げんな)元年(1615)夏の陣の先端を開きました。

籠城策を封じられた大坂方は討って出る以外になく、諸将は奮戦するも、徳川方の敵ではありませんでした。大坂城は落城し、秀頼は母の淀殿と共に自害。ここに豊臣家は滅亡します。

天下は、幾度となく訪れた危機を潜り抜け、長命を保った徳川家康の手に帰したのです。

【徳川家康がしたこと】開府前から始めていた街づくり

慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、同8(1603)年征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。

徳川家康はこれより先、天正18(1590)年に後北条氏を倒して全国制覇した豊臣秀吉から関東への移封を命じられ、江戸の町づくりを始めました。幕府を開く前から着手したのは、拠点となる江戸城周辺の整備と飲料水を確保するなどの事業でした。

江戸城は、武蔵野台地の東端に位置し、その東は低湿地が現在の東京湾に向かって広がっていました。この低湿地や入江を埋め立てて江戸の町を築きました。

江戸幕府の開府前に、江戸城築造と市街地の造成事業を進める

特筆すべきは、江戸城築造と市街地が相互に関連しながら進められたことです。神田山 (現在の駿河台)を切りくずし、水路を埋め残しながら現在の日本橋浜町から新橋辺りを埋め立てて市街地を造成していきました。

【徳川家康がしたこと】江戸の街づくり①~飲料水~

当時の江戸城は、太田道灌が支配していた頃の地形と変わらず、江戸城の近くまで日比谷の入江が入り込み、現在の皇居外苑のあたりまで海でした。道灌が築いた江戸城は、徳川家康が移り住むまでは小さな城にしかすぎず、江戸湾沿いには多くの汐入地が点在し、満潮になると海水が入り込みました。

一方、城の背後の土地は原野が広がり、平坦な土地も少なかったのですが、逆に徳川家康は土地改造の余地が大きく、開発によっては広大な領地を手にすることになると考えたのか、壮大な都市計画を描いて江戸の町づくりに着手しました。

徳川家康がまず命じた飲料水の確保

徳川家康が江戸に入る前に家臣に命じたのは、飲料水の確保でした。文禄元(1592)年、江戸城の飲料水確保のため、麹町方面から流れていた自然の河川を堰き止め、貯水池を造ることを命じています。これが現在の千鳥ヶ淵です。

江戸城内の水は塩分が抜けきらず、飲料水としては不適だったため、次に着手したのは、数々の河川工事でした。江戸は低地ゆえに、水害に弱く、たびたび洪水に悩まされました。

生活物資を千葉方面から江戸に運ぶルートとして開発したのが小名木川です。小名木川を通って行徳(ぎょうとく)から塩を運びました。これら運河は城を中心とした右渦巻き状の構造とも符号していました。運河は外に向かって広がり、濠を築くことで敵からの攻撃を防ぐ役割も果たしました。

江戸城建設のため、大量の物資を外から調達しなくてはなりません。そのためには、江戸湾に面して広がっていた湿地帯を埋め立て、海岸線を整え船着き場を建設する必要があったため、人工河川の開削で得た大量の土砂は湾の埋め立てに利用されました。

千鳥ヶ淵

住所
東京都千代田区北の丸公園
交通
地下鉄九段下駅から徒歩7分
料金
情報なし

【徳川家康がしたこと】江戸の街づくり②~五街道の整備~

古代から村や都市の発展には、道が大きな役割を果たしていました。日本において各地をつなぐ道がはっきりとした路線として現れるのは、大化の改新(646年)がきっかけです。

律令時代の重要ルート五畿七道が東京を含む武蔵国をスルーしたのは、現在の東京周辺から利根川にかけての一帯が低湿地帯であったため、当時は東京湾を船で渡るのが通常のルートであり、武蔵国を経由しなかったからでした。その後、この湿地が干拓されて陸路を行く人が増え始め、宝亀(ほうき)2(771)年には武蔵国も東海道に含まれるようになりました。

徳川家康の治世になり、五街道の整備が急速に進展

天正18(1590)年、北条氏を倒した豊臣秀吉の命により関東に移封された徳川家康は、江戸城を中心とした所領を急速に開発していきました。

さらに、関ヶ原の戦いに勝利して天下人となった徳川家康は、慶長6(1601)年には東海道に宿駅を設けて江戸~京都に伝馬制をしき、江戸と各地を結ぶ「五街道」(東海道、甲州道中、奥州道中、日光道中、中山道)の整備に着手しました。以後、一里塚を築き、並木を植え、標準幅員を決め、砂利などで路面を固めるなど、幕府直轄のもとに街道整備が進められました。

こうして江戸と各地を結ぶ交通網が整備されるとともに、江戸には全国の大名や家臣団、商人・職人が集まり、日本の政治・文化の中心地として発展していきました。

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