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【徳川家康がしたこと】江戸の街づくり③~利根川東遷~

利根川の水源は群馬と新潟の県境にそびえる大水上山(おおみなかみやま)。赤城山と榛名山の間を流れ、埼玉県で渡良瀬川と合流。続いて千葉県で江戸川や常陸利根川との合流を経て、関東最東端の千葉県銚子市の河口から太平洋へ注いでいます。

この流路となったのは、江戸時代のこと。江戸に幕府を開いた徳川家康が早々に着手したのが利根川水系の瀬替えであり、利根川から荒川を切り離し、東京湾へ流れていた利根川を銚子へと東に迂回させました。約60年間かけたこの一大工事は利根川東遷事業と呼ばれています。

徳川家康が利根川東遷事業に着手した理由

徳川家康が利根川の東遷事業に着手したのは、水田開発の推進や東北との船での物流といった目的もありましたが、古くから洪水被害が人々を悩ませてきたことが大きな理由です。

利根川の洪水被害が甚大になる理由として、川の広大さが考えられます。河川の洪水の起き方は、流域面積、河川の幅と深さ、河床(かしょう)の傾きで特徴が異なります。利根川のように流域面積が広いと多くの雨を集め、幅と深さが大きいとあふれた際の水量が多くなります。そのため、台風などで長時間広域に雨が降り続くと甚大な被害が発生しやすいのです。

利根川東遷後も、たびたび大洪水は起きています。近代化してからは戦後の復興とともに利根川上流にダムが建設され、水量を調整できるようになったことで川の氾濫を防ぎ、ようやく大きな水害の発生が減ってきました。

【徳川家康がしたこと】外交と貿易

戦国時代に統一した豊臣秀吉は、西国大名が南蛮貿易の利益を独占するのではないか、という危惧を抱いていました。天正15(1587)年に薩摩の島津を倒して九州を平定した秀吉は、同年長崎を直轄領としてバテレン(ポルトガル語で神父)追放令を出し、宣教師を国外に追放しました。

そして、貿易での利益を独占するため朱印船貿易を始めます。これは幕府が認めた貿易船だけに貿易を許可したものであり、徳川家康も、秀吉の朱印船貿易を引き継ぎ、貿易は拡大しました。

2代目・徳川秀忠の時代になり幕藩体制が整備されるのに伴い、キリスト教の平等主義思想が体制否定につながることを恐れ、貿易は長崎、平戸の2港だけに制限しました。
慶長17(1612) 年、天領と直轄の家臣に対して禁教令が出され、翌年には全国に及びました。

元和2(1616)年、徳川家康が死亡すると、キリスト教禁制と貿易統制の強化を結びつけた鎖国についての禁令が何度か出され、寛永16(1639)年7月に出された禁令により鎖国が完成したとされています。これが3代将軍・徳川家光の時代です。

【徳川家康がしたこと】大御所時代~駿府城・名古屋城築城~

2年で将軍職を息子の秀忠に譲り、自らは大御所となった徳川家康。大御所として手掛けた仕事もとても重要なものでした。ここで注目したいのは駿府城の巨大城郭の構築、清州越しと呼ばれる清洲から名古屋への遷府です。これらの政治的背景も合わせて見ていきましょう。

江戸城よりも大きい天守をもつ大御所・徳川家康の駿府城

駿府城になぜ日本一の天守台が建っていたのでしょうか。それは、江戸幕府の創設者で戦国大名のトップとして絶大な権力を握っていた徳川家康が大御所として居住する城だったからにほかなりません。

では徳川家康は、なぜ居城に駿府城を選んだのでしょうか?幼少期を過ごした心の故郷だったことなども大きく関係していますが、駿府城の西には大井川や安倍川などの河川があり、東には箱根山と富士川の難所があります。その立地は、戦略的観点で優位だったことを意味しています。

駿府城改修の2年前である1605(慶長10)年、徳川家康が息子・秀忠に将軍職を譲った時、大坂では未だ豊臣家が隠然たる実力と影響力を持っていました。その影響力を考慮し、関東防衛のための拠点として、徳川家康は駿府の地に巨大城郭を築いたのです。

また、参勤交代で東海道を利用する諸大名が徳川家康に拝謁するのに駿府はちょうど便利な位置にあり、彼らは駿府を通る際に壮大な駿府城を見ることで脅威を感じ、同時に、徳川家康と江戸幕府に対する畏怖の念を覚えたはずです。

つまり駿府城は、幕藩体制の確立に一役買っていたと言えるのです。

大御所・徳川家康が考えた駿府城下町・駿府九十六ヶ町

大御所(おおごしょ)時代の徳川家康は、陸路と水運の両面から、人と物の流れを最大限に生かす壮大な駿府の「まちづくり」を行っていました。後に「駿府九十六ヶ町」といわれるようになった駿府城下町は、江戸時代を通じて東海道の宿場町として栄え、現在の静岡市街地の原型にもなっています。

駿府城下町は駿府城を中心に、西側に町屋町が、東側に武家屋敷地が配され、寺町は町屋町の西・南の端と浅間神社付近に集中していました。

武士は駿府城の周辺に配置された武家屋敷に住み、城下町の外郭には寺社が設けられていました。寺社が郊外に配置されたのは、戦時体制の際、境内の広い空間を利用して兵を駐屯させ町や城を警護する、という戦略的な理由からだと想像できます。特に安倍川を越えて侵入する敵を食い止めるため、城の南西に位置する寺町には多くの寺院を集中させました。

大御所・徳川家康が行った「清洲越し」

尾張地方の中心地が清洲から名古屋へと転換する契機となったのが、1610(慶長15)年から開始された名古屋城築城工事です。清洲城は低湿地にあり、付近の五条川(ごじょうがわ)がたびたび氾濫したこともあって水害に弱かったのです。また、大坂に豊臣秀頼が健在の時世では、有事を想定して西へ備えることも重要でした。

こうした政治情勢も考慮され、徳川家康は清洲から名古屋への遷府を指示したのです。なお、徳川家康は名古屋城の築城費用を西国大名に請け負わせ(天下普請)、財政負担を強いました。

当時6万人規模の都市を丸ごと移転するという、前代未聞の遷府でした。そのため「清洲越し」後の清洲は跡形もなくなり、名古屋城が完成した1613(慶長18)年、清洲城は正式に廃城となることが決定しました。

【徳川家康がしたこと】74才没後も貢献~久能山東照宮・日光東照宮・埋蔵金?!~

死後400年以上経った現在でも全国各地で信仰されている徳川家康。
実は、その墓はあるものの、遺体がどこに安置されているかは明確にわかっていません。

徳川家康の遺体埋葬場所の真相

1616(元和2)年4月17日に駿府城で没した徳川家康は、自らの死に際し、側近の本多正純(ほんだまさずみ)金地院崇伝(こんちいんすうでん)南光坊天海(なんこうぼうてんかい)の3人に「亡くなったら遺体は久能山に安置し、葬儀を増上寺(ぞうじょうじ)で行い、位牌は大樹寺(だいじゅじ)に納め、一周忌の後に日光に小さなお堂を建ててそちらに移動すること」との遺言を残しました。

徳川家康が亡くなると、周囲の人々はこの指示に従い葬儀を執り行ったといいます。久能山東照宮に残る「四角い棺に正装姿で座した状態で、西を向いて葬られている」との言い伝えも、遺言によるもの。西を向いているのは、故郷の三河を眺めるためとも、豊臣の残党がいる西の勢力に睨みをきかせるためとも言われています。

徳川家康の死去の翌年、天海僧正により天台系の山王神道の観点から神号を「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」とし、日光山へ改葬。この改葬は、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が死後1年後、遺体を摂津から大和に移したという故事に倣ったものです。しかし、久能山での埋葬方法は土葬なので、そもそも遺体を移動するのは難しいのではないか、との疑問が残ります。

また、久能山東照宮には徳川家康の墓所とされる「神廟(しんびょう)」という石造りの宝塔が建っていますが、日光に改葬したのであれば久能山に廟所を築く必要はなかったのでは?という見解もあります。

徳川家康が葬られた久能山の神廟も、日光の奥宮も、これまで発掘調査は行なわれていません。研究者の中には、遺体は日光にあると考える人もおり、死後400年以上経っても論争は絶えません。真相は未だ謎に包まれているのです。

徳川家康をまつる江戸幕府最大の聖地・日光東照宮

徳川家康は、自分の遺骸はまず久能山(くのうざん)へ納め、一周忌を過ぎたのち、下野(しもつけ)の日光山に小堂を造り祀れと遺言します。そして死後、朝廷から徳川家康に「東照大権現」という神号が贈られることとなります。

1617(元和3)年3月、生前の徳川家康が畏敬した鎌倉幕府の創始者・源頼朝の信仰が厚かったという、山岳信仰の聖地である日光に東照社が建設され、東照大権現となった神君・徳川家康の霊柩はこの地に無事移されました

この時に造られた「東照社」は、現在の日光東照宮に比べるとはるかに小規模なものでした。その簡素な社を、のちに世界遺産となる絢爛豪華な建築に造り替えたのが、3代将軍・徳川家光です。

国家的行事である社参や奉幣には、膨大な費用と多数の人や物資が必要とされます。大名や領主への費用負担のみならず、民衆にも道の整備や掃除といった労働を強いました。一方では、街道沿いの宿場や地域に莫大な消費需要を生み出すことにもなったのです。

いまだ謎に包まれている「徳川埋蔵金伝説」

徳川家康は元和2(1616)年に静岡の地で生涯を終えると、同地の久能山に神葬され、後に栃木県の日光東照宮に移されました。実はその東照宮の奥社が群馬県世良田町にあります。

日光東照宮の神官の調査によると、徳川家康が最初に埋葬された静岡の久能山東照宮と富士山、世良田東照宮、日光東照宮は、一直線に結ばれることが判明。これは偶然ではなく、「久能山で神となった徳川家康が、富士山(不死の山)を越え、徳川発祥の遠祖の地である世良田を通り、北極星を背に宇宙を主宰する神と一体化して日光に祭られた」と語られています。

実は徳川埋蔵金も群馬にあるのではないかといわれています。明治維新の頃、倒幕される前に江戸城内の宝を移動させていたという「徳川埋蔵金伝説」がありますが、その移動場所は赤城山なのではという説が存在しているのです。

まずは1つには、勘定奉行として幕府の財政を担っていた、小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)の領地が権田村(現・高崎市倉渕町権田)だったこと。財政のトップが自らの所領に隠したのではと考えられていました。

さらに、明治24(1891)年には、赤城山のふもとで徳川家康の像と銅製の皿が掘り当てられ、ますます赤城山埋蔵説の信憑性が高まりました。しかし、この後も埋蔵金が出ることはありませんでした。1990年代になると、テレビ番組でも大規模な発掘が行われていましたが、結局は現在も見つかっていません。

【徳川家康がきっかけ?!】模型の都市・静岡、信州善光寺参り

静岡を「模型の首都」にしたのは徳川家康?!

世界中の模型ファンが注目する静岡。その原点は江戸時代、徳川家康を信奉する幕府によって、全国から一流の職人が集められたことにありました。

静岡県内にはタミヤBANDAI SPIRITS青島文化教材社ハセガワなど、有名メーカーが名を連ね、プラモデル出荷額は全国204億円(※平成29年。全国「平成30年工業統計調査品目編」(経済産業省)より)のうち90%を占めます。押しも押されもせぬ「模型の首都」です。

静岡で模型・プラモデルの生産が盛んになったのは、この街の歴史と深く関係しています。江戸時代、徳川家康の御霊を祀るために、久能山東照宮の造営や静岡浅間神社の再建が行われました。これにあたり、全国各地から大工、彫刻師、塗師など卓越した腕を持った職人が駿府(現在の静岡市)に集められます。

特に1804(文化元)年からの浅間神社第二期造営工事では60年余りの歳月を費やし、携わった職人たちは温暖で漆の作業に適した駿府にとどまり、それぞれの高度な技術を在来の職人に伝授しながら工芸品を手掛け始めました。

もともと森林資源が豊かで、今川期からあった木工の器製造技術も相まって、後に駿河漆器駿河指物といった静岡を代表する伝統工芸が盛んになる源となりました。やがて静岡には木製模型メーカーが数多く誕生しました。

時代を経て、静岡の木製模型メーカーはプラモデル製造メーカーへと転身を余儀なくされます。しかしながら開発に携わる人々の知識や技術、情熱によって、より精巧で質の高い静岡のプラモデルメーカーとして蘇ったのです。

徳川家康からの寄進により復興「一生に一度は善光寺参り」

善光寺の本尊は戦国乱世に翻弄され各地を転々としています。源頼朝が善光寺を再建したり、執権北条氏も尊崇(そんすう)したりしてきましたが、戦国時代になると善光寺の本尊は時代の波に翻弄されてしまいます。

武田信玄によって甲斐善光寺へ、織田信忠によって岐阜善光寺へ、徳川家康によって甲斐善光寺へ戻された後、豊臣政権下では、1597(慶長2)年に豊臣秀吉が善光寺如来を京に迎えようと画策。実際に京に迎え入れたものの、秀吉は体調が悪化し、やはり霊夢を見たとして翌1598(慶長3)年8月に信濃へと送り返しています。秀吉が亡くなる前日の出来事でした。かくして善光寺如来像は、43年ぶりに信濃の地へと戻ったのでした。

長らく本尊が不在だった善光寺は、戦乱に巻き込まれて荒廃していましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康が勝利して江戸に幕府を開くと、徳川家康から1000石の寄進を受けて徐々に復興していきました。

善光寺如来像は秘仏ですが、数えで七年に一度の御開帳のときだけは本尊の代わりに「前立本尊(まえだちほんぞん)」が一般にも公開されるようになり、これをひと目でも見ようと話題となります。江戸時代中期以降には、善光寺参りが江戸庶民のあいだでブームとなりました。そして江戸時代も末期頃になると、「一生に一度は善光寺参り」とか「遠くても一度は参れ善光寺」といわれるようになり、このとき培われた庶民の尊崇の念は現代にも引き継がれています。

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