フリーワード検索

ジャンルから探す

トップ > カルチャー >  関東 > 東京都 >

五街道の起点となった日本橋~江戸時代から続く日本の中心地~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

この記事をシェアしよう!

五街道の起点となった日本橋~江戸時代から続く日本の中心地~

徳川幕府は江戸から全国を支配するため、五街道の整備に取り組みました。
それらの起点として定められたのが、江戸の町の中央に近い日本橋でした。

五街道のルーツから見える日本の歴史の勢力図

古代から村や都市の発展には、道が大きな役割を果たしていました。日本において各地をつなぐ道がはっきりとした路線として現れるのは、大化の改新(646年)がきっかけです。

駅馬制・伝馬制が施行されたことをきっかけに、京から常陸の国府に至る東海道、九州の大宰府に至る山陽道などの諸道が対外的な重要路線として定められました。いわゆる「五畿七道(ごきしちどう)」(律令時代の行政区画)であり、七道には上記のほかに、東山道、北陸道、山陰道、南海道、西海道がありました。当時の諸道は、それに属する国々を統括した呼び名でありましたが、意外なことに「東海道」には武蔵国(現在の東京が含まれる)が入っていませんでした。

律令時代の重要ルート五畿七道が東京を含む武蔵国をスルーした理由

それは、現在の東京周辺から利根川にかけての一帯が低湿地帯であったため、当時は東京湾を船で渡るのが通常のルートであり、武蔵国を経由しなかったからでした。

その後、この湿地が干拓されて陸路を行く人が増え始め、宝亀(ほうき)2(771)年には武蔵国も東海道に含まれるようになりました。

関東に通じる道路網の整備が進み鎌倉街道を形成

鎌倉時代になると、幕府が置かれた鎌倉を中心として放射状に道が整備されていき、鎌倉と各地を結ぶ鎌倉街道がつくられました。東京を通る鎌倉街道の主要な幹線道は、西から順に「上ノ道」、「中ノ道」、「下ノ道」と呼ばれ、それぞれ、信濃(しなの)・上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、常陸(ひたち)・下総(しもうさ)と鎌倉とを結んでいましたが、現在東京に残されている古道は多くありません。この時期以降、鎌倉と京を結ぶ東海道の地位は格段に高まり、駅・宿も新設され、鎌倉繁栄の一助となりました。

鎌倉幕府滅亡後の関東主要ルートの変遷

鎌倉幕府が滅亡すると、政治的な意味での東海道の地位は低下しました。また、室町・戦国時代を通じて強大な政権が現れなかったため、全国的な道路網の整備などは行われませんでした。しかし、地方経済が徐々に発達していき、それに伴って領域内の各地をつなぐ道も発達していきました。

戦国時代には、北条・今川など東国の大名が領国内で伝馬制を実施し、軍用道の整備を進めていきました。このとき伝馬が置かれた宿駅は経済的にも繁栄していきますが、江戸時代に発展する宿駅の多くもこの時代に生まれています。

1 2

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!