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「黄巾の乱」とは?~太平道の張角が信徒を率いて蜂起!

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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「黄巾の乱」とは?~太平道の張角が信徒を率いて蜂起!

184年に勃発した黄巾(こうきん)の乱鎮圧後、漢王朝の都洛陽(らくよう)と幼い帝を董卓(とうたく)が掌握。暴政を展開します。これに対し、董卓の暴政に歯止めをかけるべく反董卓連合軍が結成されるも、群雄の覇権を巡る争いが始まる契機となってしまいます。

董卓は遷都先の長安(ちょうあん)にて呂布(りょふ)に殺害されましたが、呂布が長安を追われて流浪の果てに徐州へと至ります。冀州(きしゅう)を手中にして河北に割拠する袁紹(えんしょう)、兗州(えんしゅう)などを領して帝を庇護下に置いた曹操(そうそう)、江東を制した孫策(そんさく)などが一歩抜き出た存在となっていきます。のちに三国の一角を占める劉備(りゅうび)は、この頃はまだ拠点を持たず、流浪の日々を送っていました。

太平道の張角が信徒を率いて蜂起!群雄割拠の時代が幕を開けます。

【黄巾の乱】太平道が華北で一斉蜂起!

張角率いる道教集団は布教開始からわずか10年余りで8州に広まり、数十万人の信者を集め強大化していました。

張角は理想とする社会をつくるべく、信者を36の支部に分けて軍事組織化させていきます。そして184年、「蒼天已(そうてんすで)に死す、黄天当(こうてんまさ)に立つべし。歳は甲子(こうし)にありて、天下は大吉なり(甲子の年に世直しをすれば、太平道の天下となり良くなる)」というスローガンを掲げ、挙兵を計画しました。

ところが張角の弟子が朝廷に密告し、工作のために洛陽(らくよう)入りしていた馬元義(ばげんぎ)が殺されてしまいます。これを知った張角は2月、予定を1か月早めて全国で一斉蜂起。各地の地方官庁を襲撃しました。

信徒たちが目印として黄色い頭巾をかぶったため、この反乱を黄巾(こうきん)の乱といいます。幽州(ゆうしゅう)に割拠していた黒山賊(こくざんぞく)の張燕(ちょうえん)など各地の賊徒がこれに乗じたことも手伝って、黄巾軍は冀州(きしゅう)をほぼ制圧するなど急速に拡大し、首都の洛陽に迫る勢いを見せます。

【黄巾の乱注目の武将】張角とはどんな武将?

太平道の創始者。冀州鉅鹿(きょろく)郡の人。大賢良師(たいけんりょうし)と称し、病を癒すなどして多くの信者を獲得。数十万の信者を軍事組織化して184年に黄巾の乱を引き起こしました。彼の没後、乱は鎮圧されますが、群雄のひとり曹操(そうそう)はその残党を傘下に組み入れ飛躍の契機としました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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