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董卓の興隆と滅亡~将軍となっての暴虐ぶりから死まで~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日:2021年12月15日

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董卓の興隆と滅亡~将軍となっての暴虐ぶりから死まで~

184年に勃発した黄巾(こうきん)の乱鎮圧後、漢王朝の都洛陽(らくよう)と幼い帝を董卓(とうたく)が掌握。暴政を展開します。これに対し、董卓の暴政に歯止めをかけるべく反董卓連合軍が結成されるも、群雄の覇権を巡る争いが始まる契機となってしまいます。

董卓は遷都先の長安(ちょうあん)にて呂布(りょふ)に殺害されましたが、呂布が長安を追われて流浪の果てに徐州へと至ります。冀州(きしゅう)を手中にして河北に割拠する袁紹(えんしょう)、兗州(えんしゅう)などを領して帝を庇護下に置いた曹操(そうそう)、江東を制した孫策(そんさく)などが一歩抜き出た存在となっていきます。のちに三国の一角を占める劉備(りゅうび)は、この頃はまだ拠点を持たず、流浪の日々を送っていました。

【董卓の興隆】朝廷の混乱を突いて西の辺境から乗り込んできた暴虐の将軍!

189年の袁紹による宦官粛清後、無政府状態となった朝廷に乗り込んできたのが、反乱鎮圧の兵力を預かったまま雍州に駐屯していた董卓でした。

自滅した外戚と宦官

黄巾(こうきん)の乱鎮圧後も各地で反乱が続くなか、189年に霊帝が亡くなると、再び外戚と宦官による帝位継承者を巡る争いが勃発します。

当時外戚として権力を握っていたのは、皇后の兄で大将軍の何進(かしん)です。彼は霊帝(れいてい)の長男(劉弁(りゅうべん))を皇帝(少帝)に立てると、腹心の袁紹(えんしょう)の進言を入れて宦官の十常侍(じゅうじょうじ)を圧倒しようと辺境の軍隊に上京を命じますが、これを知った十常侍側に暗殺されてしまいます。

すると今度は激怒した袁紹らが兵を率いて宮中に押し入り、宦官を皆殺しにしました。こうして漢末の朝廷を牛耳った宦官と外戚は共倒れし、朝廷は無政府状態に陥ったのです。

政権を掌握した董卓

その間隙を突いて乗り込んできたのが地方軍閥の董卓(とうたく)でした。董卓は西方異民族との戦いで実力を培った軍人で、関中(かんちゅう)(函谷関(かんこくかん)以西の地域)で勃発した韓遂(かんすい)の乱を鎮圧後、兵を朝廷に返さずそのまま雍州(ようしゅう)に居座っていましたが、朝廷の混乱に乗じて洛陽へと向かいます。董卓は途中で宮中の混乱から逃れた皇帝兄弟と出会うと、これを保護して洛陽に入城。何進の兵や洛陽の治安部隊・丁原(ていげん)の部下の呂布(りょふ)を味方に引き入れてその軍事力を取り込むと、瞬く間に都を制圧したのです。董卓は皇帝を少帝からその弟の陳留王(ちんりゅうおう)(劉協(りゅうきょう)/献帝(けんてい))に代えるという暴挙に出て、権力を掌握します。

皇帝と軍事力を手にした董卓は、独裁体制を敷き、罪のない人々を虐殺するなど、暴政の極みを尽くしたとされます。

【董卓の興隆期注目の武将】呂布とはどんな武将?

并州五原郡(へいしゅうごげんぐん)九原県の人。初め、并州刺史(しし)の丁原に仕えるも、朝廷の実権を握った董卓の誘いに乗って丁原を殺害。董卓の下で身辺警護を担当しました。戦いにあっては、赤兎という名馬を駆って比類なき武勇を発揮し、董卓政権を軍事から支える存在となります。

【董卓の興隆】三国志演義では?

少帝は退位から間もなく、母親の何太后(かたいごう)とともに殺害されています。実際に殺害されるのは、長安(ちょうあん)への遷都の際で、正史との違いには、次項の反董卓連合軍の結成が影響を与えたことを隠す意図があったとされます。

【董卓と反董卓連合軍】皇帝を弑逆し朝廷を牛耳る董卓に連合軍が挑む

恐怖政治で政治を壟断する董卓に対し、190年、関東の諸将が一斉に立ち上がり反董卓連合軍を結成しました。

関東の諸将が反董卓連合軍を結成

董卓(とうたく)の暴政が続くなか、洛陽にあった袁紹(えんしょう)曹操(そうそう)ら関東の諸将は、次々に自領へと引き揚げていきました。

190年、政権を私物化し、恐怖政治を展開する董卓の排除を唱え、曹操が豫州(よしゅう)の陳留で挙兵するなど、各地で反董卓の兵が挙がり、反董卓連合軍が結成されます。

この連合軍は袁紹を盟主とし、曹操、孫堅(そんけん)、王匡(おうきょう)、張邈(ちょうばく)と張超(ちょうちょう)兄弟、韓馥(かんふく)、鮑信(ほうしん)ら、主に函谷関(かんこくかん)以東の郡太守、州牧(しゅうぼく)といった長官たちが参加しました。

董卓軍に曹操が挑むも完敗

この状況に慌てた董卓は立て直しを図るため、守りに適さない都・洛陽を捨て、自らの本拠地・涼州(りょうしゅう)に近い漢帝国の旧都・長安への遷都を強行します。

遷都に際して董卓は洛陽に火を放ち、歴代皇帝の陵墓を暴いて財宝を奪うと、自身は洛陽に残って呂布らとともに連合軍の迎撃体制を整えます。

いよいよ両軍の激突が近づいたかに見えましたが、反董卓連合軍は、圧倒的な軍事力を誇る董卓軍に怖気づき、互いに牽制し合って誰も攻撃しないという様相を呈してしまいます。

そうしたなか、あくまで進軍を主張した曹操は、心を同じくする済北(せいほく)の相・鮑信とともに5000の兵を率いて出陣します。

しかし、滎陽(けいよう)で董卓配下の徐栄(じょえい)の大軍と激突して敗退し多くの兵を失います。曹操自身も流れ矢に当たって負傷し、辛うじて窮地を脱したといいます。

【反董卓連合軍注目の武将】曹操とはどんな武将?

宦官の家系に生まれ20歳で朝廷に仕えると、黄巾の乱で活躍し、188年に西園八校尉(さいえんはつこうい)のひとりとなりました。董卓の暴政に対して挙兵した曹操は、諸侯が戦いを躊躇するなかにあって進軍を唱えました。滎陽の戦いで大敗するものの、大いにその名を高め、献帝擁立の正当性を得ることとなります。

【董卓と反董卓連合軍】三国志演義では?その①

演義において反董卓連合軍の結成に際し、大きな役割を果たすのが曹操です。彼は董卓暗殺を試みようとして失敗すると、洛陽を脱して陳留へと戻り、ここで反董卓の檄文を発しています。これが契機となって連合軍が結成されるに至ります。

【董卓と反董卓連合軍】孫堅が董卓軍を追い詰め洛陽入城を果たす

打倒董卓に立ち上がった諸将でしたが、董卓軍の軍事力に怖気づき、積極的に戦ったのは、孫堅と曹操などわずかでした。

董卓軍を撃破した孫堅

反董卓(とうたく)連合軍のなかにあって、実際に戦いを挑んだ数少ない諸侯は、曹操(そうそう)ともうひとり、長沙の太守・孫堅(そんけん)でした。この孫堅が董卓を追い詰めていくことになります。

長沙から北上した孫堅は、魯陽(ろよう)城で酒宴の最中に董卓軍の精鋭に囲まれ危機に瀕しますが、整然とした備えで機先を制し辛くも脱出し、難を逃れます。その後、梁(りょう)では徐栄に敗れたものの、体制を整えて陽人(ようじん)で董卓軍の華雄(かゆう)を撃破したのです。孫堅は華雄の首を斬って晒しています。

こうして孫堅は洛陽へと迫ります。

これに慌てたのが董卓です。孫堅に和睦を申し出るが、孫堅に断られると、洛陽を捨て長安へと撤退していきました。

伝国の玉璽を発見

こうして、191年4月に洛陽入城を果たした孫堅でしたが、洛陽は董卓によって陵を暴かれたばかりか、町には火が放たれて焦土と化していました。

孫堅は陵墓を修復したが、正史の注に引かれる『呉書(ごしょ)』によると、この時不思議な光を発する井戸があったため探らせたところ、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)より歴代皇帝に受け継がれてきた「伝国の玉璽」を発見したといいます。

孫堅は天のおぼしめしと考え、これを持ち帰ります。

このあと反董卓連合軍が洛陽に集まりますが、洛陽奪還という一応の目的を達したこともあって、その後は利害が対立し、まもなく解散しました。

【反董卓連合軍注目の武将】孫堅とはどんな武将?

17歳の時に海賊退治で名を高め、黄巾の乱・韓遂の乱鎮圧に貢献しました。反董卓連合軍には長沙太守として参加。陽人の戦いで華雄を斬る活躍を見せています。洛陽に入った際には、董卓が荒らした漢室の陵墓を修復し、その際、「伝国の玉璽」を入手したといわれます。

【董卓と反董卓連合軍】三国志演義では?その②

連合軍は汜水関(しすいかん)、虎牢関(ころうかん)と進軍します。その過程で汜水関を守る華雄に孫堅が敗れると、公孫瓚(こうそんさん)配下の劉備軍のなかから関羽が華雄に一騎打ちを挑んでこれを斬り、続く虎牢関の戦いでは、董卓軍の呂布に対して張飛、関羽、そして劉備が戦いを挑んでいます。

【董卓の死】子飼いの将“呂布”に裏切られ命を落とした暴君

董卓の暴政に終止符を打った呂布でしたが、2度にわたる裏切り行為が警戒され、各地を転々とすることとなります。

董卓政権で政治を担った官僚たち

反董卓(とうたく)連合軍は洛陽の攻略後解散し、以降の華北(中国北部地域)は群雄割拠の状態となります。

一方、長安に都を移した董卓は、郿(び)に堅固な砦を築いて30年分の糧食を貯え、太師に就任して尚父(しょうほ)と号し、ここでも暴虐の限りを尽くしていました。

その董卓政権で政治の実務を担当していたのは、宦官に追放されていた儒教的官僚たちでした。配下に政治を任せられる者がいない董卓が復活させましたが、官僚たちは異民族対策、経済対策、あるいは名士起用による制度改革などを行なって一定の成果をあげています。しかし、彼らも董卓の横暴には反感を募らせつつありました。

董卓は呂布に裏切られた

ついに儒教的官僚らは司徒(しと)の王允(おういん)を中心に董卓抹殺を計画します。

王允は、董卓の腹心ながらささいなことから董卓と対立していた呂布(りょふ)に目を付け、言葉巧みに近づき、仲間に抱き込みます。

そして反董卓連合結成から3年後の192年、董卓暗殺が決行されます。宮中の門に到着した董卓を呂布が斬り殺したのです。稀代の梟雄(きょうゆう)はあっけなく息絶え、董卓の一族はすべて殺害されました。

しかしこのあと長安は混乱します。

王允は董卓軍残党の制御に失敗し、10万の軍勢で長安へ引き返してきた李傕(りかく)や郭汜(かくし)らに殺害され、辛くも長安を脱出した呂布は張楊(ちょうよう)を頼ったとされます。

【董卓の死】董卓とはどんな武将?

霊帝死後に起こった朝廷の政治的混乱に乗じて上洛し、軍事力を背景に政治の実権を握り、権勢をほしいままにしました。武芸に秀でていたと正史に記されますが、たいへんな肥満体で、暗殺後、夜営の兵が董卓の遺体のへそに灯心を挿したところ、火は数日間燃えていたといわれます。

【董卓の死】三国志演義では?

『三国志演義』では董卓と呂布の間を割くため、王允と貂蝉による美女連環の計が展開されます。貂蝉の末路については、演義と日本の作品で大きく異なっています。

◉正史では貂蝉が登場しない
◉『三国志演義』では美女連環の計の中心として登場
◉演義と吉川『三国志』、横山『三国志』では、貂蝉の行く末が異なる

三国志演義での董卓の死①:貂蝉の「美女連環の計」を描く

後漢末、専制を振るった董卓(とうたく)の死について、『三国志演義』は、王允(おういん)の歌妓である貂蝉(ちょうせん)の「美女連環の計」を描きます。董卓と呂布(りょふ)がともに好色漢であることに目を付けた王允は、歌姫の貂蝉を使い、二人の仲を割き、呂布に董卓を殺させるのです。

雑劇や語りもののなかには、関羽(かんう)が貂蝉を斬るものがあります。それらの作品では、貂蝉は呂布の妻と設定されています。妻であれば、董卓と関係を持つ不貞は許されません。『三国志演義』は、貂蝉を貞節への期待の薄い歌妓とし、さらに王允への孝、漢への忠を加えることで、貂蝉を生かしました。「美女連環の計」の後、貂蝉は呂布の妾となります。

江戸時代の湖南文山(こなんのぶんざん)『通俗三国志(つうぞくさんごくし)』は、貂蝉が董卓打倒を願う王允に、「もし男であれば、助けることができますが、女の身ではお助けできません」と述べます。ここには、女は国事に口出しすべきではないという女性観が示されます。吉川英治(よしかわえいじ)の『三国志』は、王允の貂蝉への深い愛情を描いています。貂蝉は、王允の情に絆(ほだ)されて「美女連環の計」を引き受け、「美女連環の計」を成し遂げて自刃(じじん)します。

その理由は、「獣王の犠牲」になった肉体を「彼女自身のもの」にするため、すなわち貞節を守れなかった自らを取り戻すためとされます。横山光輝(よこやまみつてる)の『三国志』も、自刃を継承する。ただ、自刃した貂蝉は、安らかな表情をしています。そこには、貞節を守れとの周囲の圧力で死んだ姿は微塵も感じられません。横山光輝は、自刃した貂蝉の表情により、凛(りん)とした生き様を描いたのです。

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【見どころ】目次より一部抜粋

■序章 三国志とはなにか?
【『三国志』と『三国志演義』】三国志といっても正史と演義のふたつが存在する
【日本人と三国志】江戸時代に始まる日本の三国志ブーム
【名士の社会】三国志の争いに大きな影響を与えた人々

■第1章 曹操の華北制覇
【黄巾の乱】太平道の張角が信徒を率いて蜂起! 群雄割拠の時代が幕を開ける
【董卓の死】子飼いの将に裏切られ命を落とした暴君
【呂布追討】呂布に徐州を奪われた劉備、曹操とともに呂布を討つ ほか
~コラム~くらべて楽しむ三国志
董卓の死/曹操・劉備・孫権の人物像

■第2章 三国時代のはじまり
【三顧の礼】荊州にて不遇の日々を送る劉備、諸葛亮と出会う
【赤壁の戦い】業火が曹操の水軍を焼き尽くした三国志最大の戦い
【樊城の戦い】樊城を陥落寸前まで追い詰めた関羽、呉の寝返りにより麦城に散る!
【曹操の死】曹操の死と曹丕の即位が三国時代の幕を開ける ほか
~コラム~くらべて楽しむ三国志
三顧の礼/諸葛亮と周瑜の角逐/錦馬超/『孟徳新書』/関帝信仰

■第3章 諸葛亮の北伐
【曹丕の南征】弱体化した呉を狙うも敗退し、蜀呉同盟復活の契機となる
【第一次北伐】劉備の念願をかなえるべく、諸葛亮が長安攻略を目指す
【第五次北伐】魏の持久戦術に成す術なく、五丈原で諸葛亮の命が尽きる

■終章 三国時代の終焉
【蜀の滅亡】厭戦気分の高まる蜀になだれ込み、成都を強行軍によって占領した魏
【魏の滅亡】司馬氏に乗っ取られた魏、禅譲によって晋に取って代わられる
【呉の滅亡】暴君・孫晧の悪政に付け込んで一斉に晋軍が侵攻 ほか

監修者紹介

渡邉義浩(わたなべよしひろ)
1962年生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科史学専攻修了。早稲田大学文学学術院教授。専門は中国古代思想史。文学博士。主な著書に『三国志事典』(大修館書店)、『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』(講談社)、『三国志 演義から正史、そして史実へ』(中公新書)などがある。

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