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董卓の興隆と滅亡~将軍となっての暴虐ぶりから死まで~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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董卓の興隆と滅亡~将軍となっての暴虐ぶりから死まで~

184年に勃発した黄巾(こうきん)の乱鎮圧後、漢王朝の都洛陽(らくよう)と幼い帝を董卓(とうたく)が掌握。暴政を展開します。これに対し、董卓の暴政に歯止めをかけるべく反董卓連合軍が結成されるも、群雄の覇権を巡る争いが始まる契機となってしまいます。

董卓は遷都先の長安(ちょうあん)にて呂布(りょふ)に殺害されましたが、呂布が長安を追われて流浪の果てに徐州へと至ります。冀州(きしゅう)を手中にして河北に割拠する袁紹(えんしょう)、兗州(えんしゅう)などを領して帝を庇護下に置いた曹操(そうそう)、江東を制した孫策(そんさく)などが一歩抜き出た存在となっていきます。のちに三国の一角を占める劉備(りゅうび)は、この頃はまだ拠点を持たず、流浪の日々を送っていました。

【董卓の興隆】朝廷の混乱を突いて西の辺境から乗り込んできた暴虐の将軍!

189年の袁紹による宦官粛清後、無政府状態となった朝廷に乗り込んできたのが、反乱鎮圧の兵力を預かったまま雍州に駐屯していた董卓でした。

自滅した外戚と宦官

黄巾(こうきん)の乱鎮圧後も各地で反乱が続くなか、189年に霊帝が亡くなると、再び外戚と宦官による帝位継承者を巡る争いが勃発します。

当時外戚として権力を握っていたのは、皇后の兄で大将軍の何進(かしん)です。彼は霊帝(れいてい)の長男(劉弁(りゅうべん))を皇帝(少帝)に立てると、腹心の袁紹(えんしょう)の進言を入れて宦官の十常侍(じゅうじょうじ)を圧倒しようと辺境の軍隊に上京を命じますが、これを知った十常侍側に暗殺されてしまいます。

すると今度は激怒した袁紹らが兵を率いて宮中に押し入り、宦官を皆殺しにしました。こうして漢末の朝廷を牛耳った宦官と外戚は共倒れし、朝廷は無政府状態に陥ったのです。

政権を掌握した董卓

その間隙を突いて乗り込んできたのが地方軍閥の董卓(とうたく)でした。董卓は西方異民族との戦いで実力を培った軍人で、関中(かんちゅう)(函谷関(かんこくかん)以西の地域)で勃発した韓遂(かんすい)の乱を鎮圧後、兵を朝廷に返さずそのまま雍州(ようしゅう)に居座っていましたが、朝廷の混乱に乗じて洛陽へと向かいます。董卓は途中で宮中の混乱から逃れた皇帝兄弟と出会うと、これを保護して洛陽に入城。何進の兵や洛陽の治安部隊・丁原(ていげん)の部下の呂布(りょふ)を味方に引き入れてその軍事力を取り込むと、瞬く間に都を制圧したのです。董卓は皇帝を少帝からその弟の陳留王(ちんりゅうおう)(劉協(りゅうきょう)/献帝(けんてい))に代えるという暴挙に出て、権力を掌握します。

皇帝と軍事力を手にした董卓は、独裁体制を敷き、罪のない人々を虐殺するなど、暴政の極みを尽くしたとされます。

【董卓の興隆期注目の武将】呂布とはどんな武将?

并州五原郡(へいしゅうごげんぐん)九原県の人。初め、并州刺史(しし)の丁原に仕えるも、朝廷の実権を握った董卓の誘いに乗って丁原を殺害。董卓の下で身辺警護を担当しました。戦いにあっては、赤兎という名馬を駆って比類なき武勇を発揮し、董卓政権を軍事から支える存在となります。

【董卓の興隆】三国志演義では?

少帝は退位から間もなく、母親の何太后(かたいごう)とともに殺害されています。実際に殺害されるのは、長安(ちょうあん)への遷都の際で、正史との違いには、次項の反董卓連合軍の結成が影響を与えたことを隠す意図があったとされます。

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