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三英傑でつかんだ天下統一!武家政権によって混乱した愛知県域の中世の歴史

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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三英傑でつかんだ天下統一!武家政権によって混乱した愛知県域の中世の歴史

中世は武家政権に翻弄されましたが、愛知県域からは戦国時代に三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)が出ています。
彼らによって歴史は大きく動きました。

三英傑を生んだ愛知県における中世~戦国時代の権力争いの構図

東国と西国の境界に位置する尾張国と三河国は、中世には武家政権に翻弄され続けることになります。

平安時代末期には平氏一門が拠点としていたことから尾張や三河では朝廷の影響力が強かったものの、在地武士の多くは源平合戦で平家に反旗を翻し、源頼朝に加担しました。

ですが、承久(じょうきゅう)の乱(1221年)で朝廷(後鳥羽上皇)と鎌倉幕府(執権北条義時)が対立すると、朝廷や中央貴族との縁故を重視し、尾張国には京方に与(くみ)する者が多くありました。ところが、京方の軍勢は尾張国と美濃国の国境、墨俣一帯で幕府軍に大敗。承久の乱は幕府軍が勝利し、後鳥羽上皇は隠岐に配流(はいる)されてしまいます。尾張国には鎌倉幕府の有力御家人が地頭として着任し、急速に幕府権力が浸透していくのでありました。

室町幕府を開いた足利尊氏を支えた尾張国と三河国

三河国では、足利氏が三河守護を代々務めるようになります。足利氏の本拠は下野国足利荘(しもつけのくにあしかがのしょう)(栃木県足利市)で、のちに足利尊氏が出ました(生地は京都とされています)。

1333(正慶2)年、尊氏は後醍醐天皇の挙兵に呼応し鎌倉幕府を倒します。南北朝期を経て足利尊氏が室町幕府の初代征夷大将軍になると、尊氏の分国であった三河国や尾張国には将軍直属の奉公衆が数多く配属され、足利将軍家を補佐する役割を担っていきます。

尾張国内で急伸する織田家の勢力

尾張守護は足利将軍家の有力一門である斯波(しば)氏が務めました。斯波氏は幕府の管領を務める名門でしたが、家督を巡る御家騒動が勃発(武衛騒動(ぶえいそうどう)。これにより応仁の乱が引き起こされました。

斯波氏が内紛によって疲弊するいっぽう、尾張国内で急速に力をつけて台頭してきたのが、織田大和守家に仕える清洲三奉行家のひとつ・織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)でした。

当主の信秀は斎藤氏(美濃国)や今川氏(駿河国)と抗争を繰り広げながらも勢力を築いていき、やがて信秀の病死後に嫡男・信長が家督を継ぎました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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