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「清洲越し」により6万人都市が丸ごと名古屋へ!~徳川家康による大掛かりな還府が行われた背景~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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「清洲越し」により6万人都市が丸ごと名古屋へ!~徳川家康による大掛かりな還府が行われた背景~

清洲から名古屋への都市機能移転を「清洲越し」といいます。
この前代未聞の大がかりな遷府が行われた背景には、政治的な思惑が絡んでいました。

「清洲越し」による名古屋と愛知県の中心地の推移

現在、愛知県の中心は名古屋市です。県庁所在地であり、2019(令和元)年の国勢調査に基づく推計人口は230万人を超えました。これは全国の自治体では横浜市、大阪市に次ぐ3位であり、東海地方最大にして日本有数のメガシティといえます。

「清洲越し」以前は尾張地方の要所だった清州

しかし、尾張地方の中心地は、もともとは清洲(清須市)でした。清洲城は、尾張・遠江・越前の守護を務めた管領の斯波氏が、14世紀末から15世紀の初頭に築造したと伝えられています。1478(文明10)年に守護所に定められてから尾張の中心地となり、室町時代後期には尾張下四郡を治める織田大和守家の居城となりました。

織田信長は、元来は那古野(なごや)城(現在の名古屋城二の丸付近)を居城としていましたが、織田弾正忠家の家督を継いだ際に清洲城へ本拠を移転。信長と徳川家康の同盟は「清洲同盟」と称されたことからもわかるように、この盟約は清洲城で締結されました。

また、信長死後の後継者決定会議も清洲城で開催されました。いわゆる「清洲会議」です。こうした例からも、かつての清洲は政治や経済の中心地として栄えていたことがわかります。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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