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呂布に徐州を奪われた劉備、曹操とともに呂布を討つ

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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呂布に徐州を奪われた劉備、曹操とともに呂布を討つ

184年に勃発した黄巾(こうきん)の乱鎮圧後、漢王朝の都洛陽(らくよう)と幼い帝を董卓(とうたく)が掌握。暴政を展開します。これに対し、董卓の暴政に歯止めをかけるべく反董卓連合軍が結成されるも、群雄の覇権を巡る争いが始まる契機となってしまいます。

董卓は遷都先の長安(ちょうあん)にて呂布(りょふ)に殺害されましたが、呂布が長安を追われて流浪の果てに徐州へと至ります。冀州(きしゅう)を手中にして河北に割拠する袁紹(えんしょう)、兗州(えんしゅう)などを領して帝を庇護下に置いた曹操(そうそう)、江東を制した孫策(そんさく)などが一歩抜き出た存在となっていきます。のちに三国の一角を占める劉備(りゅうび)は、この頃はまだ拠点を持たず、流浪の日々を送っていました。

呂布に徐州を奪われた劉備、曹操とともに呂布を討ちます。

呂布に裏切られ徐州を失った劉備

196年、陶謙(とうけん)死後の混乱に乗じ徐州に侵攻した袁術(えんじゅつ)は、劉備(りゅうび)の前に苦戦し、劉備の元に身を寄せていた呂布に内応を持ち掛けます。袁術の誘いに乗った呂布は劉備の後背をついて劉備から徐州を奪い取ります。ところが呂布はすぐに袁術と仲違いし、劉備と和睦しました。

その袁術は197年、自ら皇帝を称し、「仲」王朝を建てます。だがこれが仇となりました。諸侯や名士、民衆から批判を浴びるなか、形式上配下だった孫策も自立して周囲は敵だらけとなってしまいます。

窮地に立った袁術は呂布と手を結ぼうとするも断られ、怒りに任せて呂布を攻めて大敗。逆に曹操に袁術包囲網を築かれ追い詰められていきます。支持を失った袁術は2年後、仇敵の袁紹を頼る途中で病死しました。

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