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劉備の流浪を経て蜀制圧まで~人望で切り抜けた数々の戦

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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劉備の流浪を経て蜀制圧まで~人望で切り抜けた数々の戦

200年の官渡(かんと)の戦いを制した曹操は、その後袁紹(えんしょう)の息子たちを滅ぼし、207年までに河北を掌握し、群雄のなかで随一の実力を手にしました。曹操は次の目標を荊州、そして孫家(そんけ)の支配する呉(ご)と定めて南下を開始します。

この頃、荊州の劉表(りゅうひょう)の下にあった劉備は、荊州名士(めいし)の間で評価を高めていた諸葛亮(しょかつりょう)を陣営に迎えて天下三分を基本戦略と定め、まずは曹操の南下を撃退すべく、孫権(そんけん)との同盟を締結します。

ここに三国成立の契機となる赤壁(せきへき)の戦いを迎えます。

劉備は曹操に撃退され荊州の劉表を頼る

のちに三国の一角を担う劉備ですが、挙兵以来各地の群雄に加担しながら華北を転々とし、拠点を得ることができないでいました。

劉備は漢王室の血を引く群雄

袁紹(えんしょう)に加担していた劉備(りゅうび)は、延津(えんしん)の戦いで敗れたのち、汝南(じょなん)へ移って曹操(そうそう)の後背を狙いました。ところが袁紹が敗退し、曹操の攻撃を受けると劉備は荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を頼って逃走する。劉表も劉備を受け入れ、対曹操の最前線にある新野(しんや)城を守らせました。

挙兵以来流浪を続けてきた劉備とは一体どのような人物なのでしょうか。

劉備は幽州(ゆうしゅう)の生まれで、前漢(ぜんかん)の景帝(けんてい)の子である中山靖王劉勝(ちゅうざんせいおうりゅうしょう)の末裔を称します。

代々役所に仕えた家柄で、祖父は県令(けんれい)まで務めた人物でしたが、劉備の父が早くに亡くなったため、母と筵(むしろ)や草鞋(わらじ)を作って生活するなど辛酸を嘗めて育ちます。

貧しかった劉備は名士との関わりをもちませんでしたが、代わりに関羽(かんう)張飛(ちょうひ)などアウトローの豪傑たちと積極的に交わります。劉備には人望があり、多くの若者が集まったとされます。

劉備は彼らを従えて黄巾(こうきん)の乱鎮圧に身を投じて、幽州の公孫瓚(こうそんさん)に従い、各地を転戦するなかで群雄として台頭。陶謙(とうけん)から徐州(じょしゅう)を譲られるまでになりました。

劉備は曹操軍を破った

新野城でも劉備の人柄を慕って多くの人材が集まってきました。

それを見て劉備に疑念を抱き始めた劉表は、曹操軍の夏侯惇(かこうとん)と李典(りてん)が攻め入ってくると、劉備にこれを当たらせます。

この時、劉備は自軍の陣営を焼き払って逃走するように見せかけ、追撃してきた夏侯惇の軍を伏兵で打ち破っています(博望坡(はくぼうは)の戦い)

【劉備の流浪時代注目の武将】劉表とはどんな武将?

党錮の禁において朝廷を追われますが、何進に招かれて復帰。霊帝の没後、荊州刺史として同地に赴任しました。袁紹と結んで袁術・孫堅と対立し、193年には孫堅を配下の黄祖が討ち取っています。官渡の戦いでは曹操に味方するようにとの配下の進言を拒否し、汝南で敗れた劉備を受け入れました。

【劉備の流浪時代】三国志演義では?

博望坡の戦いは、劉備がその軍略で夏侯惇を破ったのではなく、諸葛亮仕官後の戦いとして描かれています。諸葛亮は関羽、張飛、そして汝南で合流した趙雲ら優れた将を手足の如く使い、伏兵や火攻めを多用して10万の夏侯惇軍を壊滅させ、その実力を周囲に認めさせたのでした。

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