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曹丕の即位で三国時代の幕を開ける~曹操の死と魏王朝誕生~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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曹丕の即位で三国時代の幕を開ける~曹操の死と魏王朝誕生~

200年の官渡(かんと)の戦いを制した曹操は、その後袁紹(えんしょう)の息子たちを滅ぼし、207年までに河北を掌握し、群雄のなかで随一の実力を手にしました。曹操は次の目標を荊州、そして孫家(そんけ)の支配する呉(ご)と定めて南下を開始します。

この頃、荊州の劉表(りゅうひょう)の下にあった劉備は、荊州名士(めいし)の間で評価を高めていた諸葛亮(しょかつりょう)を陣営に迎えて天下三分を基本戦略と定め、まずは曹操の南下を撃退すべく、孫権(そんけん)との同盟を締結します。

ここに三国成立の契機となる赤壁(せきへき)の戦いを迎えます。

曹操の死と曹丕の即位が三国時代の幕を開けます。
漢王朝を滅ぼした曹丕に対し、孫権は臣従の姿勢を示しますが、劉備は即位を認めず、自身も皇帝となって対抗の意志を明確にしています。

曹丕が禅譲を受けて魏の初代皇帝となる

関羽(かんう)の死から間もない220年1月、魏を建国した曹操が没し、太子の曹丕(そうひ)が魏王となります。

曹丕は後継争いのライバルとなった実弟の曹植(そうち)曹彰(そうしょう)の二人を左遷して支配体制を固め、同年9月には後漢の献帝(けんてい)より禅譲(ぜんじょう)を受けて皇帝となりました。これが魏の初代皇帝・文帝(ぶんてい)です。ここに後漢王朝は名実ともに滅亡し、洛陽を都とする魏王朝が成立します。

禅譲とは先王(帝)より位を譲られる形式のことです。武力で先王を倒す「放伐(ほうばつ)」よりも理想とされた、王朝交代の形式でした。もとよりこの禅譲は建前で、実質的には位を譲るよう武力で迫ったものでしたが、それでも曹操と曹丕による禅譲の形式は、以後、「魏武輔漢(ぎぶほかん)の故事」と呼ばれ、北宋(ほくそう)の成立まで800年にわたって受け継がれています。

曹丕とはどんな武将?

曹操の嫡男で、丞相曹操の補佐を務めて経験を積み、217年、魏の太子に立てられました。220年に曹操が死去すると跡を継いで魏王となり、献帝から禅譲を受けて魏を建てました。人事基準を儒教に置き、新たに九品中正という官僚任用制度を制定しています。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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