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【濡須口の戦い】弱体化した呉を狙った曹丕が敗退、蜀呉同盟復活の契機となる

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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【濡須口の戦い】弱体化した呉を狙った曹丕が敗退、蜀呉同盟復活の契機となる

曹操(そうそう)に次いで劉備(りゅうび)が白帝城(はくていじょう)に没し、三国の争いの中心は蜀の諸葛亮(しょかつりょう)へと移っていきます。

劉備からその子・劉禅(りゅうぜん)と漢王朝再興を託された諸葛亮は国力の回復に尽力すると、速やかに呉と同盟を結び直し、225年、たびたび反乱を起こしていた南中を自ら大軍を率いて平定します。

後顧の憂いを断った諸葛亮は蜀漢の悲願である漢王朝復興のため、劉禅に自らの決意をしたためた「出師(すいし)の表(ひょう)」を奉り、魏討伐に出陣しました。以後、五次にわたる北伐が行なわれることとなります。

呉は、陸遜指揮のもと曹丕の3路からの侵攻をすべて撃退。この間に孫権は蜀との同盟を復活させ、戦後、独自の元号を定めて独立の姿勢を示しました。

【濡須口の戦い】魏軍が大挙して呉討伐へ

陸遜(りくそん)の活躍により夷陵(いりょう)の戦いに勝利した呉軍でしたが、劉備(りゅうび)が逃げ込んだ白帝城(はくていじょう)までは追撃していません。これは、魏(ぎ)の動向を警戒したからです。呉は魏に対して一応臣従の形をとって夷陵の戦いに臨んでいますが、互いに侵攻する機会を窺っていたのです。

事実、蜀呉の戦いを見た魏帝・曹丕(そうひ)は、呉が人質を送らないことを理由に、222年9月に洞口(どうこう)、濡須口(じゅしゅこう)、江陵(こうりょう)の3拠点へ大軍を南下させ呉に侵攻してきたのです。

孫権(そんけん)はまず洞口に呂範(りょはん)を派遣し魏軍を迎え撃たせます。

洞口では暴風雨に襲われ両軍ともに被害を受けるなか、呉軍は必死の防戦を展開し、かろうじて洞口の防衛に成功しました。

【濡須口の戦い注目の武将】孫権とはどんな武将?

19歳で兄孫策(そんさく)の跡を継ぎ、曹操(そうそう)の南下に際しては周瑜(しゅうゆ)の主戦論を入れて、見事勝利を得て呉の独立を確立しました。魯粛(ろしゅく)が説く劉備の荊州(けいしゅう)領有を承認するも、劉備の勢力拡大を受けて曹操に接近し、荊州奪還を成功させました。229年、呉の皇帝として即位。晩年は後継者争いに苦悩しました。

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