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諸葛亮の北伐~漢王朝復興のため5度にわたり魏討伐に出陣~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日:2021年12月14日

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諸葛亮の北伐~漢王朝復興のため5度にわたり魏討伐に出陣~

曹操(そうそう)に次いで劉備(りゅうび)が白帝城(はくていじょう)に没し、三国の争いの中心は蜀の諸葛亮(しょかつりょう)へと移っていきます。

劉備からその子・劉禅(りゅうぜん)と漢王朝再興を託された諸葛亮は国力の回復に尽力すると、速やかに呉と同盟を結び直し、225年、たびたび反乱を起こしていた南中を自ら大軍を率いて平定します。

後顧の憂いを断った諸葛亮は蜀漢の悲願である漢王朝復興のため、劉禅に自らの決意をしたためた「出師(すいし)の表(ひょう)」を奉り、魏討伐に出陣しました。以後、五次にわたる北伐が行なわれることとなります。

【諸葛亮の北伐】劉備没後の混乱を突いた反乱を鎮圧し蜀は国力を強化

劉備の没後、国力の回復に努め、呉との同盟も復活させた諸葛亮は、225年3月、南中へ出陣して諸反乱を鎮圧すると、孟獲を降して南中の統治を彼ら在地豪族に委ね、その年の内に帰国しました。

諸葛亮による南中の制圧

劉備没後の蜀では、その混乱に乗じて益州(えきしゅう)南部の南中(なんちゅう)で反乱が続発します。とくに益州郡の雍闓(ようがい)は呉と通じており、さらに南中の豪族・孟獲(もうかく)と結んでいました。しかし夷陵の戦いで大損害を受けた蜀には反乱を制圧できるだけの兵力がありません。そこで諸葛亮(しょかつりょう)は守勢に回って防ぎながら、国内各地で治水工事を行なって農業生産力を高めるなど国力回復を優先しました。

こうして内政を立て直した諸葛亮は、224年に再び呉との同盟を結んで後顧の憂いを断つと、翌年3月に南中制圧に自ら乗り出します。

各地で蜀軍が次々と反乱を鎮圧していくなか、反乱軍内部で仲間割れが起こり、雍闓が異民族の高定(こうてい)に殺害されます。諸葛亮はこの高定の反乱を鎮圧すると、それに与していた孟獲も帰順させ、南中平定を終えました。

経済回復をもたらした南中平定

諸葛亮はなぜ自ら出陣するほど、南中平定に力を注いだのでしょうか。実はこの地は塩や鉄、金銀などの鉱物資源に恵まれており、これらを収奪して持ち帰り蜀の経済を潤わせたのでした。また、永昌(えいしょう)は南海交易の交易都市であったため、貿易航路を抑える目的もあったとされます。

しかも諸葛亮はこの時、南中の統治をそのまま孟獲ら在地豪族に委ねます。後漢と同じ異民族に対する融和政策を踏まえたものですが、おかげで南中の人心を掌握でき、南中支配に必要な蜀の経済的負担の軽減にもつながったといいます。

こうして蜀は劉備没後の混乱から脱したのでした。

【南中の反乱注目の武将】孟獲とはどんな武将?

南蛮(なんばん)の王。蛮人にも漢人にも心服される人物でしたが、劉備の没後、呉と結んだ雍闓に呼応して蜀に対する反乱を起こしました。演義では鎮圧にやってきた諸葛亮に対して7度にわたって挑むもすべて敗れて心服しています。蜀への降伏後、南中の統治を任されました。

【南中の反乱】三国志演義では?

南中の豪族・孟獲は、南蛮の王として登場し、強烈なインパクトを与えます。諸葛亮は孟獲を心服させるため、7回捕らえ、7回放ったという逸話があり、演義では孟獲が朶思大王(だしだいおう)・木鹿(ぼくろく)大王・兀突骨(ごつとつこつ)ら南蛮の豪族たちと組んで、何度も諸葛亮に挑んでは敗れる話が展開されます。

【諸葛亮の北伐】第一次:劉備の念願をかなえるべく長安攻略を目指す

諸葛亮は長安の制圧を狙って北上し、趙雲らを陽動部隊として動かす一方、本隊は涼州制圧に向かわせました。その際、魏の補給を断つべく街亭の守備を子飼いの馬謖に命じますが、馬謖は諸葛亮の指示を無視して街亭を失う失態を犯してしまいます。

【諸葛亮の第一次北伐】涼州制圧を目前にした蜀軍

南中遠征から2年。228年1月より、諸葛亮(しょかつりょう)は劉備(りゅうび)の宿願を果たすべく魏の長安(ちょうあん)を目指す北伐(ほくばつ)の軍を興します。諸葛亮は決意を示す出師(すいし)の表(ひょう)劉禅(りゅうぜん)に奏上して軍旅につきました。

手始めに新城太守の孟達(もうたつ)に内応工作を仕掛けますが、司馬懿(しばい)に読まれて失敗したため、諸葛亮は涼州(りょうしゅう)を得る作戦に変更します。

諸葛亮は趙雲(ちょううん)らを長安へ至る最短ルートに向かわせ魏の大将・曹真(そうしん)を牽制させると、自ら率いる本隊は遠回りして涼州制圧に進みます。そして瞬く間に天水(てんすい)・南安(なんあん)・安定(あんてい)の3郡を奪い、涼州奪取まであと一歩に迫りました。

【諸葛亮の第一次北伐】諸葛亮「泣いて馬謖を斬る」

ここで戦いの行方を決する重要地として浮かび上がったのが、街亭(がいてい)です。関中(かんちゅう)と涼州を結ぶ要衝にあたり、魏の援軍迎撃のためにも同地の確保は最重要課題でした。諸葛亮は、この街亭を子飼いの馬謖(ばしょく)に守らせたのですが、これが致命的な失敗となります。

馬謖は、諸葛亮の指示を無視して麓の街道を塞ぐのではなく、攻撃しやすい山の上に陣取ったのです。ですがこれは机上の空論に過ぎませんでした。魏軍が水の手を断つと、山上の蜀軍は動揺し、たちまち魏軍に粉砕されてしまいます。3郡も奪回され、蜀軍はそのまま撤退に追い込まれました。

諸葛亮の子飼いである馬謖は才覚のある人物だが、重要な仕事を任せるなと劉備から遺言されていたといいます。この事態を引き起こした諸葛亮は、自ら丞相を辞して降格。馬謖を斬って戦後処理を終えました。

【諸葛亮の第一次北伐注目の武将】馬謖とはどんな武将?

劉備の入蜀に従い、綿竹(めんちく)・成都(せいと)の県令(けんれい)、越巂(えっしゅん)郡太守を歴任するなかで才能を発揮。しかし、劉備からの評価は低く、「馬謖は言葉が行動に先行するから重く用いてはならない」と諸葛亮に遺言しています。それでも諸葛亮は第1次北伐の街亭の戦いで主将に起用し、結果、大敗を招くこととなります。

【諸葛亮の第一次北伐】三国志演義では?

諸葛亮は街亭の敗報を受けると撤退を決め、自ら殿(しんがり)5000を率いて西城へと入りました。そして、城の四方の門を開け放たせ、櫓の上で琴を弾じて待ち受けたのです。そこへ司馬懿が15万の大軍を率いて殺到しますが、逆に伏兵を警戒し、全軍に退却を命じたため、蜀軍は撤退に成功しました。

【諸葛亮の北伐】第二次:陳倉の堅城攻略に失敗し撤退

呉の石亭での勝利を受けて、諸葛亮は2回目の北伐を決意しますが、魏の郝昭の奮闘の前に撤退を余儀なくされてしまいます。

【諸葛亮の第二次北伐】郝昭に投降を促すも拒否され攻撃開始

228年の呉の石亭での勝利を受けて、同年11月に諸葛亮(しょかつりょう)北伐(ほくばつ)を決意。劉禅に後出師(こうすいし)の表(ひょう)を出して決意を表明し、2回目の北伐を決行します。

今回、街亭(がいてい)は通れないため、諸葛亮は散関方面から雍州(ようしゅう)へ侵入し、陳倉(ちんそう)を包囲します。

ですが魏もこれを予想し、陳倉に堅城を築いて郝昭(かくしょう)に守らせていました。ただ魏軍の援軍は間に合わず、守る城兵はわずか1000余り。

圧倒的な軍勢で攻め寄せた諸葛亮は郝昭に投降を呼びかけますが、魏に対する忠義に篤い彼は断固拒否します。かくして諸葛亮は攻撃を開始しました。

【諸葛亮の第二次北伐】攻城兵器を巡る蜀と魏の応酬

この時の戦いの様子は正史の明帝紀(めいていき)に詳しく描かれています。

諸葛亮は雲梯(うんてい)(高い梯子付きの戦車)、衝車(しょうしゃ)(戦車)、大矢倉(おおやぐら)の井蘭(せいらん)といった攻城兵器を繰り出して陳倉城を攻撃。迎え撃つ郝昭は雲梯に火矢を射かけて兵もろとも焼き尽くし、石うすで衝車を押し潰して対抗します。

蜀軍が井蘭から矢を射かけ、城壁をよじ登ろうとすれば、城側は内側に城壁を築いてこれを防ぎ、蜀軍が城外から内部へ入るトンネルを掘れば、城側はトンネルを横に切断していくといった形で次々と撃退していきました。

その攻防20日余り。そのうちに費曜(ひよう)と張郃(ちょうこう)率いる魏の援軍が近づき、蜀軍の兵糧も底を尽いてしまいます。そのため、諸葛亮は撤退を余儀なくされたのです。準備不足が響いた北伐の失敗でした。

【諸葛亮の第二次北伐注目の武将】郝昭とはどんな武将?

若くして仕官し軍歴を重ねるなかで戦功をあげて雑号将軍となり、諸葛亮の北伐に際して陳倉の守備を命じられました。雲梯・衝車などの攻城兵器を駆使して攻め寄せる蜀軍に対して頑強に抵抗し、これを撃退する描写が明帝紀に記され、演義でも同様の攻防が展開されています。

【諸葛亮の第二次北伐】三国志演義では?

史実ではこのあと陳倉の戦いは起こりませんが、演義では、翌年の第3次北伐において郝昭が病にかかったことを知った諸葛亮が、城内に間者を忍び込ませ、内外から攻撃を仕掛け陳倉城を落としています。郝昭も蜀軍の奇襲を受けるなか、仰天して絶命しました。

【諸葛亮の北伐】第三次:武都と陰平を制圧し街亭の失敗を挽回

陳倉攻略に失敗した諸葛亮でしたが、翌年には陳式を派遣して武都・陰平を攻略しました。一方魏は230年、曹真と司馬懿を漢中攻めに派遣するも、折からの長雨で膠着状態となり、結局戦果を得ることなく撤退しています。

【諸葛亮の第三次北伐】赤阪・成固の戦い開始

陳倉の攻略に失敗した諸葛亮(しょかつりょう)でしたが、229年、再起をかけて、魏に奪われていた漢中の裏手に位置する武都(ぶい)陰平(いんぺい)陳式(ちんしょく)を派遣し、これを占領します。

この地は北伐の通過地点として重要なだけでなく、同地に住む羌(きょう)族などの屈強な兵を取り込み、兵力増強を図る狙いもありました。

武都・陰平攻略後、諸葛亮は劉禅からの詔(みことのり)を受けて丞相(じょうしょう)の職に復しています。

これに対して魏は翌年、曹真(そうしん)司馬懿(しばい)を漢中に進軍させました。

迎え撃つ諸葛亮は成固(せいこ)に本拠を移し、自ら赤阪(せきはん)に布陣。また、李厳(りげん)に2万の兵を率いさせて漢中入りさせ、万全の体制で迎撃しようとしていました。

【諸葛亮の第三次北伐】大雨が原因で撤退する諸葛亮

ところがこの赤阪・成固の戦いは結局、ほとんど戦わずして終わってしまいます。

1か月間も大雨が降り続き、魏軍が足止めをくらって漢中に到達できなかったのです。結局蜀軍も動けず膠着状態に陥ってしまいます。進軍路として設けた桟道(さんどう)が壊れ、補給も進軍もできない状況に追い込まれた魏軍は、曹叡の命令を受け撤退していきました。

こうして第三次北伐は両軍が一戦も交えることなく終わったのです。

ただしこの後、諸葛亮は魏延(ぎえん)と呉懿(ごい)に命じて涼州(りょうしゅう)の羌中(きょうちゅう)を攻めさせています。彼らは魏軍の防衛線を打ち破って羌中方面へ進出。追撃してきた郭淮(かくわい)を撃破して敗走させると、羌中へ至り荒し回ったといいます。

【諸葛亮の第三次北伐注目の武将】陳式とはどんな武将?

劉備の漢中攻略に従い、夷陵の戦いにも参加したとされる将。武都・陰平攻略後、史書からは姿を消しますが、演義においては諸葛亮の怒りを買い斬首される末路をたどります。『三国志』の著者陳寿(ちんじゅ)の父とされ、『晋書(しんじょ)』には陳寿の父が諸葛亮によって処罰されたとされ、演義ではそれが陳式とされています。

【諸葛亮の第三次北伐】三国志演義では?

かつて孫策に会稽を追われた王朗が第一次北伐に登場。諸葛亮に対して論戦を挑み、魏の正統性を主張しますが、逆に漢に対する不忠を罵られて憤死してしまいます。王朗は、曹丕への禅譲を渋る献帝を脅し、献帝に代わって譲位を望む文を書いた人物とされています。

【諸葛亮の北伐】第四次:祁山にて司馬懿と激突!蜀軍は味方の裏切りで撤退

第四次北伐において諸葛亮は祁山へと進出。上邽にて魏軍を破りますが、味方の背信により撤退を余儀なくされています。しかし、撤退に際して魏の名将・張郃を討ち取りました。

【諸葛亮の第四次北伐】司馬懿相手に勝利

231年、諸葛亮(しょかつりょう)第二次北伐の失敗を踏まえ、輸送車の木牛(もくぎゅう)を開発し、食糧を十分整えた上で第四次北伐を敢行しました。

拠点としたのは祁山(きざん)。ここは諸葛亮が北伐の要衝とみなした地で、羌(きょう)族と魏軍に手を結ばせないためにも重要な地でした。

一方、病気の曹真(そうしん)に代わって総指揮を任せられた魏軍の司馬懿(しばい)は、諸葛亮の万全の備えを見て持久戦に持ち込みます。

しかし魏軍内から攻撃を望む不満の声に押され、司馬懿もやむなく出陣します。張郃(ちょうこう)に王平を攻撃させる一方、自身が諸葛亮の本陣に突撃し、諸葛亮との初の対戦に挑んだのです。しかし諸葛亮は十分な備えをして待ち構えていたうえ、この日を待ち続けた蜀軍の士気は高かった。たちまち魏軍は圧倒され、3000の兵を失ってしまうのでした。

【諸葛亮の第四次北伐】李厳の裏切りで撤退へ

祁山の戦いで凱歌をあげた蜀軍でしたが、意外な裏切りで撤退に追い込まれてしまいます。

兵糧の輸送を担当していた李厳(りげん)の怠慢で兵糧が欠乏。責任の追及を恐れた李厳が偽の詔勅で諸葛亮を撤退させたのです。

事情を知らずに撤退を始めた諸葛亮ですが、その撤退戦も周到でした。伏兵を用意し、追ってきた張郃を討ち取ったのです。

諸葛亮が撤退してくると、李厳は皇帝・劉禅(りゅうぜん)の前でも自らの失態を取り繕おうとしますが、諸葛亮が証拠を示して背信が発覚。平民に落とされています。

【諸葛亮の第四次北伐注目の武将】司馬懿とはどんな武将?

司馬氏は多くの高官を輩出してきた家柄で、司馬懿の8人の兄弟もその優秀さから「八達(はったつ)」と評されました。曹操の強引な召喚に応じて魏に仕え、明帝の時代に諸葛亮の北伐に対抗する司令官となります。兵糧に弱みのある蜀に対して持久戦を貫き、諸葛亮の野望をくじくことに成功しました。

【諸葛亮の第四次北伐】三国志演義では?

撤退に際して諸葛亮は、司馬懿と司馬師(しばし)、司馬昭(しばしょう)父子を上方谷へ誘い込むと、山上から松明を投げ込み、地雷を爆破させて焼き殺そうとしますが、にわかに大雨が降り、火が消えて策は失敗に終わりました。

【諸葛亮の北伐】第五次:魏の持久戦術に成す術なく五丈原で尽きる

漢中から褒水沿いに進んで秦嶺山脈を越え、五丈原に布陣した諸葛亮でしたが、魏の司馬懿が持久戦の構えを見せると成す術がなく、諸葛亮の寿命がついに尽きてしまいます。

【諸葛亮の第五次北伐】五丈原で両軍にらみ合い

234年、諸葛亮(しょかつりょう)は10万の軍勢を率いて第五次北伐(ほくばつ)へと出陣します。漢中から北上する険しい褒斜(ほうや)道を通り、五丈原(ごじょうげん)に布陣しました。

今回は諸葛亮も持久戦を覚悟し、兵糧を十分確保し斜中に貯蔵庫も用意したほか、五丈原でも軍屯を行なっています。

また、流馬(りゅうば)という一輪輸送車も開発して準備万端で臨んだのです。

呉の孫権(そんけん)も魏の出陣の隙をついて合肥(がっぴ)に出陣し、魏軍を牽制していました。

対する魏の司馬懿(しばい)は30万の大軍で渭水南岸に布陣し、持久戦を展開します。

長期戦となれば分が悪いのは蜀です。おまけに7月には呉の敗退の報が伝わり、蜀軍内で焦りが増します。諸葛亮は女物の衣装を司馬懿に送って、「男らしく出てきて戦え」と挑発しますが、司馬懿は動きませんでした。

【諸葛亮の第五次北伐】孤軍奮闘の諸葛亮ついに死す

こうして100日が過ぎた8月、蜀軍が突如撤退を開始します。諸葛亮が病に倒れ亡くなったのです。『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』には、「諸葛亮が早朝に目覚め深夜に眠り、食事の量も数分の1だったことを知った司馬懿が彼の死期が近いことを悟った」とあります。

司馬懿は撤退する蜀軍を追撃しますが、殿(しんがり)の楊儀(ようぎ)が陣太鼓を鳴らして抵抗したため、諸葛亮の生存を疑い、諦めています。人々は「死せる諸葛、生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす」と言い合ったそうです。

ただし蜀軍では撤退する際、唯一魏延(ぎえん)が徹底抗戦を主張。そのため楊儀と争いになり、魏延が謀反人として斬られています。

【諸葛亮の第五次北伐注目の武将】魏延とはどんな武将?

蜀軍の猛将。荊州より劉備に従って功績を重ね、諸葛亮の北伐でも欠かせない存在として従軍しました。しかし、諸葛亮が陣没し後事を託された楊儀が撤退を決めると反乱を起こすも、馬岱(ばたい)に斬られています。演義においては劉備に仕える際、諸葛亮に「反骨(はんこつ)の相(そう)」を指摘され、造反への伏線が描かれます。

【諸葛亮の第五次北伐】三国志演義では?

「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」について、演義では、諸葛亮の死を悟った司馬懿が蜀軍に総攻撃をかけたところ、突如現れた諸葛亮の姿に驚いて撤退する姿が描かれます。これは諸葛亮の木像であり、実際に司馬懿を「走らせ」たことになっています。

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【見どころ】目次より一部抜粋

■序章 三国志とはなにか?
【『三国志』と『三国志演義』】三国志といっても正史と演義のふたつが存在する
【日本人と三国志】江戸時代に始まる日本の三国志ブーム
【名士の社会】三国志の争いに大きな影響を与えた人々

■第1章 曹操の華北制覇
【黄巾の乱】太平道の張角が信徒を率いて蜂起! 群雄割拠の時代が幕を開ける
【董卓の死】子飼いの将に裏切られ命を落とした暴君
【呂布追討】呂布に徐州を奪われた劉備、曹操とともに呂布を討つ ほか
~コラム~くらべて楽しむ三国志
董卓の死/曹操・劉備・孫権の人物像

■第2章 三国時代のはじまり
【三顧の礼】荊州にて不遇の日々を送る劉備、諸葛亮と出会う
【赤壁の戦い】業火が曹操の水軍を焼き尽くした三国志最大の戦い
【樊城の戦い】樊城を陥落寸前まで追い詰めた関羽、呉の寝返りにより麦城に散る!
【曹操の死】曹操の死と曹丕の即位が三国時代の幕を開ける ほか
~コラム~くらべて楽しむ三国志
三顧の礼/諸葛亮と周瑜の角逐/錦馬超/『孟徳新書』/関帝信仰

■第3章 諸葛亮の北伐
【曹丕の南征】弱体化した呉を狙うも敗退し、蜀呉同盟復活の契機となる
【第一次北伐】劉備の念願をかなえるべく、諸葛亮が長安攻略を目指す
【第五次北伐】魏の持久戦術に成す術なく、五丈原で諸葛亮の命が尽きる

■終章 三国時代の終焉
【蜀の滅亡】厭戦気分の高まる蜀になだれ込み、成都を強行軍によって占領した魏
【魏の滅亡】司馬氏に乗っ取られた魏、禅譲によって晋に取って代わられる
【呉の滅亡】暴君・孫晧の悪政に付け込んで一斉に晋軍が侵攻 ほか

監修者紹介

渡邉義浩(わたなべよしひろ)
1962年生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科史学専攻修了。早稲田大学文学学術院教授。専門は中国古代思想史。文学博士。主な著書に『三国志事典』(大修館書店)、『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』(講談社)、『三国志 演義から正史、そして史実へ』(中公新書)などがある。

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