フリーワード検索

トップ > カルチャー >  海外 > アジア >

姜維不在の隙をつかれた蜀の滅亡

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日:2021年12月14日

この記事をシェアしよう!

姜維不在の隙をつかれた蜀の滅亡

蔣琬、ついで費禕が没すると、抑えのいなくなった姜維は無謀な北伐を繰り返し、蜀の国力を疲弊させていきました。

姜維が漢中で孤立するなか、蜀の朝廷は腐敗の一途をたどります。

これを好機と捉えた司馬昭は、263年、ついに蜀制圧の軍を派遣しました。

姜維の無謀な北伐~ストッパー費禕没後に激化~

姜維は北伐を繰り返した

司馬氏のクーデターの後、魏ではこれに反発する反乱が相次ぎます。司馬氏は反乱勢力の王淩(おうりょう)諸葛誕(しょかつたん)などを次々討ち、反対勢力を一掃します。

蜀では諸葛亮(しょかつりょう)の没後、蔣琬(しょうえん)が、その死後は費禕(ひい)が中心となり守勢に徹して国力回復に努めました。北伐(ほくばつ)は蔣琬が一度計画したものの実行されず、続く費禕も積極攻勢に出ず、逆に曹爽の大軍に攻められた時にはこれを撃退します。ところが253年、その費禕が宴席で刺殺されてしまいます。

すると蜀は今までの守勢から一転、毎年のように北伐を繰り返すようになるのでした。というのも、費禕の跡を継いだ大将軍の姜維(きょうい)が対魏強硬派だったためです。

早速姜維は呉の合肥侵攻と合わせて南安を包囲しますが敗北。以降も狄道(てきどう)、上邽(じょうけい)、駱谷(らくこく)と北伐を繰り返し、魏の対蜀戦線を担った鄧艾(とうがい)と死闘を演じるも結局跳ね返されてしまいます。

姜維が不在の蜀宮廷は黄皓が台頭し腐敗

こうして大きな収穫のない北伐を繰り返して国力を疲弊させる姜維に対し、蜀の宮廷では譙周(しょうしゅう)『仇国論(きゅうこくろん)』を著して異議を唱えるなど、不満の声が高まりつつありました。

一方で軍の最高権力者である姜維が不在の蜀の宮廷においても腐敗が進んでいました。246年に重鎮の董允(とういん)が亡くなると、皇帝・劉禅(りゅうぜん)宦官の黄皓(こうこう)を重用。政治を顧みず、遊興の日々を送るようになり、黄晧が政治を私物化。蜀は内部から崩壊していきます。

姜維とはどんな武将?

初め魏に仕えていましたが、第1次北伐の際に降伏し、諸葛亮の後継者となりました。しかし、無謀な北伐を繰り返した結果、宮中で孤立し、北伐の隙をついて成都を落とされることとなります。それでも蜀復興を企図して鍾会(しょうかい)を抱き込み、魏に対する反乱を誘発させようとしましたが、計画が発覚し殺害されました。

【姜維の北伐】三国志演義では?

司馬懿の跡を継いだ司馬師は、毌丘倹・文欽の乱の最中に病没します。目に悪性の瘤(こぶ)を患い、文欽の奇襲を受けた際に瘤が破れて目玉が飛び出すという凄惨な状態に。死の床においても目玉が飛び出して亡くなります。

姜維の漢中孤立を好機に成都を強行軍によって占領した魏

成都を奇襲した鄧艾の魏軍に降伏

では劉禅(りゅうぜん)が寵愛する宦官の黄皓(こうこう)が政治を私物化し、姜維は辺境に追いやられます。

司馬懿の没後、兄・司馬師(しばし)の跡を継いで魏の実権を握っていた司馬昭(しばしょう)は、姜維(きょうい)の孤立と蜀の腐敗を見て263年、鍾会(しょうかい)、鄧艾(とうがい)らに命じてついに蜀制圧の軍を興します。

まず姜維が沓中(とうちゅう)にいる隙を突き、鍾会が漢中をまたたくまに制圧します。その報を受けた姜維は沓中から撤退し剣閣(けんかく)に籠ると、鍾会の攻撃を何度も跳ね返しました。

埒(らち)が明かないと悟った鄧艾は、陰平(いんぺい)の険しい間道を抜け、成都を突く迂回策を強行します。事実、蜀軍も無警戒で、間道を抜けた先の江由城(こうゆじょう)はあっさり降伏。綿竹(めんちく)では諸葛亮の子・諸葛瞻(しょかつせん)が抵抗しますが、ついに敗れ、成都が魏軍によって包囲されたのです。

不意打ちをくらったのは劉禅です。じつは姜維から漢中陥落の報が送られてきていますが、劉禅は黄皓に魏軍は侵攻してこないと言いくるめられ、酒宴に明け暮れていたのです。降伏勧告を受けた劉禅はまだ軍勢がありながらも命惜しさにあっさり降伏。蜀は滅亡したのでした。

姜維は最後まで蜀復興をもくろんだ

ところが、蜀復興をもくろむ姜維が鍾会を抱き込んだため、蜀の動乱は終わりません。鍾会は鄧艾に謀反の濡れ衣を着せてこれを葬り、姜維とともに独立すべく司馬昭に反旗を翻します。しかし事前に発覚し、2人は戦死しました。

一方、蜀軍の救援に動いた呉は劉禅の降伏を受けて、蜀領の永安(えいあん)を奪おうとしたが失敗しています。

【蜀の滅亡注目の武将】鄧艾とはどんな武将?

吃音を持っていたことから出世が遅れたものの、司馬懿に見出だされ対呉政策、姜維の迎撃に貢献。263年、蜀討伐を命じられると、鍾会の軍が姜維を足止めする隙に成都へと進出し、蜀を降伏させましたが、これを妬んだ鍾会の讒言(ざんげん)によって謀反人とされ凱旋することなく処刑されました。

【蜀の滅亡】三国志演義では?

劉禅の降伏に際し、滅亡を悼んで妻子とともに命を絶ったのが劉禅の子・劉諶(りゅうしん)です。演義では118回のタイトルに記されるほど存在がクローズアップされ、徹底抗戦を主張するも退けられ、慟哭の末、劉備に詫びてその墓の前で命を絶ちました。

『地図でスッと頭に入る三国志』好評発売中!

群雄が割拠した三国志を勢力図で解説。正史vs演義、人気の三国志作品も徹底比較!

数多の武将たちが群雄割拠し、栄枯盛衰の理のもとに散っていった三国志。はるか昔の、しかも他国の歴史であるにも関わらず、日本ではマンガやゲームなど多くの作品の題材となり、どの世代も魅了している。本書では、三国志のなかでも重要な出来事や戦いを図説。なぜその土地が重要だったのか?その戦いがなぜそこで起こったのか?地図とともにみれば、三国志の本当の姿が見えてくる。また、正史としての三国志と、物語としての三国演義の比較、マンガや映画など人気作品を分析したコラムも三国志ファン必見!

【見どころ】目次より一部抜粋

■序章 三国志とはなにか?
【『三国志』と『三国志演義』】三国志といっても正史と演義のふたつが存在する
【日本人と三国志】江戸時代に始まる日本の三国志ブーム
【名士の社会】三国志の争いに大きな影響を与えた人々

■第1章 曹操の華北制覇
【黄巾の乱】太平道の張角が信徒を率いて蜂起! 群雄割拠の時代が幕を開ける
【董卓の死】子飼いの将に裏切られ命を落とした暴君
【呂布追討】呂布に徐州を奪われた劉備、曹操とともに呂布を討つ ほか
~コラム~くらべて楽しむ三国志
董卓の死/曹操・劉備・孫権の人物像

■第2章 三国時代のはじまり
【三顧の礼】荊州にて不遇の日々を送る劉備、諸葛亮と出会う
【赤壁の戦い】業火が曹操の水軍を焼き尽くした三国志最大の戦い
【樊城の戦い】樊城を陥落寸前まで追い詰めた関羽、呉の寝返りにより麦城に散る!
【曹操の死】曹操の死と曹丕の即位が三国時代の幕を開ける ほか
~コラム~くらべて楽しむ三国志
三顧の礼/諸葛亮と周瑜の角逐/錦馬超/『孟徳新書』/関帝信仰

■第3章 諸葛亮の北伐
【曹丕の南征】弱体化した呉を狙うも敗退し、蜀呉同盟復活の契機となる
【第一次北伐】劉備の念願をかなえるべく、諸葛亮が長安攻略を目指す
【第五次北伐】魏の持久戦術に成す術なく、五丈原で諸葛亮の命が尽きる

■終章 三国時代の終焉
【蜀の滅亡】厭戦気分の高まる蜀になだれ込み、成都を強行軍によって占領した魏
【魏の滅亡】司馬氏に乗っ取られた魏、禅譲によって晋に取って代わられる
【呉の滅亡】暴君・孫晧の悪政に付け込んで一斉に晋軍が侵攻 ほか

監修者紹介

渡邉義浩(わたなべよしひろ)
1962年生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科史学専攻修了。早稲田大学文学学術院教授。専門は中国古代思想史。文学博士。主な著書に『三国志事典』(大修館書店)、『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』(講談社)、『三国志 演義から正史、そして史実へ』(中公新書)などがある。

『地図でスッと頭に入る三国志』を購入するならこちら

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!

エリア

トップ > カルチャー >  海外 > アジア >

この記事に関連するタグ