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姜維不在の隙をつかれた蜀の滅亡

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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姜維不在の隙をつかれた蜀の滅亡

蔣琬、ついで費禕が没すると、抑えのいなくなった姜維は無謀な北伐を繰り返し、蜀の国力を疲弊させていきました。

姜維が漢中で孤立するなか、蜀の朝廷は腐敗の一途をたどります。

これを好機と捉えた司馬昭は、263年、ついに蜀制圧の軍を派遣しました。

姜維の無謀な北伐~ストッパー費禕没後に激化~

姜維は北伐を繰り返した

司馬氏のクーデターの後、魏ではこれに反発する反乱が相次ぎます。司馬氏は反乱勢力の王淩(おうりょう)諸葛誕(しょかつたん)などを次々討ち、反対勢力を一掃します。

蜀では諸葛亮(しょかつりょう)の没後、蔣琬(しょうえん)が、その死後は費禕(ひい)が中心となり守勢に徹して国力回復に努めました。北伐(ほくばつ)は蔣琬が一度計画したものの実行されず、続く費禕も積極攻勢に出ず、逆に曹爽の大軍に攻められた時にはこれを撃退します。ところが253年、その費禕が宴席で刺殺されてしまいます。

すると蜀は今までの守勢から一転、毎年のように北伐を繰り返すようになるのでした。というのも、費禕の跡を継いだ大将軍の姜維(きょうい)が対魏強硬派だったためです。

早速姜維は呉の合肥侵攻と合わせて南安を包囲しますが敗北。以降も狄道(てきどう)、上邽(じょうけい)、駱谷(らくこく)と北伐を繰り返し、魏の対蜀戦線を担った鄧艾(とうがい)と死闘を演じるも結局跳ね返されてしまいます。

姜維が不在の蜀宮廷は黄皓が台頭し腐敗

こうして大きな収穫のない北伐を繰り返して国力を疲弊させる姜維に対し、蜀の宮廷では譙周(しょうしゅう)『仇国論(きゅうこくろん)』を著して異議を唱えるなど、不満の声が高まりつつありました。

一方で軍の最高権力者である姜維が不在の蜀の宮廷においても腐敗が進んでいました。246年に重鎮の董允(とういん)が亡くなると、皇帝・劉禅(りゅうぜん)宦官の黄皓(こうこう)を重用。政治を顧みず、遊興の日々を送るようになり、黄晧が政治を私物化。蜀は内部から崩壊していきます。

姜維とはどんな武将?

初め魏に仕えていましたが、第1次北伐の際に降伏し、諸葛亮の後継者となりました。しかし、無謀な北伐を繰り返した結果、宮中で孤立し、北伐の隙をついて成都を落とされることとなります。それでも蜀復興を企図して鍾会(しょうかい)を抱き込み、魏に対する反乱を誘発させようとしましたが、計画が発覚し殺害されました。

【姜維の北伐】三国志演義では?

司馬懿の跡を継いだ司馬師は、毌丘倹・文欽の乱の最中に病没します。目に悪性の瘤(こぶ)を患い、文欽の奇襲を受けた際に瘤が破れて目玉が飛び出すという凄惨な状態に。死の床においても目玉が飛び出して亡くなります。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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