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北条早雲の戦略地図~鎌倉公方と管領の争乱が止まぬ関東に討ち入り

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月13日

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北条早雲の戦略地図~鎌倉公方と管領の争乱が止まぬ関東に討ち入り

応仁の乱の不利を見て関東へ転進し、旧勢力が争いを続ける関東に北条早雲は乱入を決意します。

北条早雲の戦略地図~応仁・文明の乱の不利を見て関東へ転進

〝下剋上〞とは、下の者が上の者をしのぎ倒すこと。このキーワードとともに語られる先駆け的存在が、北条早雲(伊勢新九郎盛時、すなわち伊勢宗瑞)です。これまで浪人の身から成りあがったとされてきましたが、実際には室町幕府の政所執事を務めた名族・伊勢氏の支流に生まれた人物であるようです。北条早雲は、長享元年(1487)、姉の嫁ぎ先である今川氏の家督争いに介入して駿河に下向します。

北条早雲は応仁・文明の乱において足利義視(あしかがよしみ)に属していましたが、義視が伊勢に下り形勢不利となった時に駿河下向を決意したようです。家督争いを制して甥の氏親を今川家当主につけた北条早雲は、その氏親から駿河東部に所領を与えられました。これが戦国大名〝北条早雲〞の始まりです。

北条早雲の戦略地図

北条早雲こと伊勢宗瑞は、古河公方と関東管領の山内上杉、その支族である扇谷上杉を中心とした室町幕府以来の勢力が争いを続ける関東へ侵攻し、伊豆・相模を平定。北条氏5代繁栄の基礎を築きました。

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