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今川義元の戦略地図~武田・北条との戦いに終止符

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月13日

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今川義元の戦略地図~武田・北条との戦いに終止符

恩人の北条氏綱から離れ、武田へ同盟相手を変え、三河を得て、尾張へ進出するも桶狭間で突然の終焉を迎えます。

今川義元の戦略地図~恩人の北条氏綱から離れ、武田へ同盟相手を変える

駿河と遠江守護の今川氏は、氏親の子・義元の時代に全盛期を迎えます。

義元は、父と兄の早世を受け、天文5年(1536)の花蔵(はなぐら)の乱で異母兄の玄広恵探を破り当主の座に就きます。この時、軍師・雪斎の意見で、外交策を大きく転換します。敵対してきた甲斐の武田氏と同盟し、武田信虎(たけだのぶとら)の娘を娶りました。しかしこれが北条との紛争を招きます。武田を共通の敵としてきた北条氏綱(ほうじょううじつな)が激怒し、駿河東部に攻め入ってきたのです。

この河東一乱(かとういちらん)は、雪斎の奔走で、武田、北条、今川の間で甲相駿(こうそうすん)三国同盟が結ばれるまで、2次にわたり天文23年(1554)まで続きました。

 

 

武田と結んだ今川義元

北条氏綱と結んで武田信虎に対抗していた今川義元でしたが、天文6年(1537)に甲駿同盟を結び、北条氏に対抗するようになります。

背後を固め終わり進出へ

北条との対立が解消されると、義元は三河から尾張への進出を企図します。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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