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真壁郡を430年守った真壁氏とは?権力者の抗争に翻弄されながらも命脈を守り続けた 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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真壁郡を430年守った真壁氏とは?権力者の抗争に翻弄されながらも命脈を守り続けた

桜川市周辺は、かつては真壁郡といわれていました。この地に根ざし、数々の抗争に巻き込まれながらも命脈を保ち続けたのが真壁氏です。

真壁郡と真壁氏の関係

真壁(まかべ)郡とは、現在の桜川市周辺にかつて存在した行政区です。平安時代中期に編さんされた『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には古代律令制における行政区画が網羅されており、そこにすでに名前が確認できます。この真壁郡を、およそ430年の長きにわたって支配し続けてきたのが真壁氏です。

真壁氏は、大掾氏の流れを汲む常陸平氏の庶流のひとつです。多気直幹(たけなおもと)の四男・長幹(たけもと)が、1172(承安2)年に真壁郡司として真壁郡に入部。多気氏から分家して真壁氏を名乗り、以後、同地で勢力を保っています。真壁城(桜川市真壁町)は長幹が築城したと伝わりますが、この時期の城の位置は明らかではありません。

真壁氏は真壁荘の地頭として鎌倉幕府の御家人に

平安時代末期、平清盛を中心とする伊勢平氏政権に対して反乱(治承・寿永の乱)が起きると、常陸国内の領主は当初は積極的な関与をしませんでしたが、やがて真壁氏は源頼朝の挙兵に呼応します。頼朝に臣従を誓ったことにより、真壁荘の地頭として任じられ、鎌倉幕府の御家人となります。

真壁氏は足利尊氏の北朝方となったことにより真壁郡の地頭職となる

鎌倉幕府の末期には、後醍醐天皇が幕府打倒を掲げて挙兵します(元弘の乱)。鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、足利尊氏が光明天皇を擁立して南北朝時代に突入します。真壁氏は当初は南朝方(後醍醐天皇)に与していましたが、のちに足利尊氏の下に参じて北朝方となりました。これにより、足利尊氏から真壁郡の地頭職を安堵されるのでした。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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