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茨城県の農業の歴史~野菜産出額日本一のまちがある!盛んな理由とは? 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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茨城県の農業の歴史~野菜産出額日本一のまちがある!盛んな理由とは?

茨城県は、全国でも屈指の農業県です。東京都中央卸売市場の取扱額が17年連続日本一(2020年)という圧倒的な存在感を誇る、茨城県の農業に迫ります。

【茨城県の農業の歴史】藩や幕府の後押しで新田開発が進んだ近世

茨城県は古来より農業生産力が高く、田積(土地面積)、官稲(かんとう)(税金として徴収された稲など)が陸奥国に次いで2位であった記録が残ります。
近世前期には、治水と利水による農村対策が重視されました。水戸藩が17世紀中期に築造した久慈川の辰之口江堰(えぜき)と岩崎江堰、那珂川の小場(おば)江堰は「三大江堰」と呼ばれ、合計石高2万1000石以上の田を灌漑しました。また、鬼怒川と分離した利根川支流の小貝川に築かれた福岡堰、岡堰、豊田堰の「小貝川三大堰」は常陸谷原で3万石、相馬谷原で2万石の新田開発に貢献しています。

近世中期には、幕府が享保の改革で新田開発を奨励したことも後押しし、県西では1725(享保10)年までに総面積1726町にのぼる飯沼新田が開発されました。

近世後期には、凶作や風水害が度々起こって潰れ百姓(没落・離村した農民)や手余り地が増え農村は荒廃しますが、幕府や領主によって経済的支援や農民教化などの復興策が講じられて回復していきました。

1874(明治7)年の物産調査によれば、県内の物産総額のうち農産物の比率は約70%であり、その大部分が米でした。また1882(明治15)年の農業人口の構成は88.2%、翌年の農家戸数は北海道、新潟、千葉に次いで14万戸となりました。

農業人口は減少するも好環境が手伝って全国平均を大きく上回る

時代が進むと全国的に農業人口が減少していきますが、茨城県では1920(大正9)年の構成比でも72.5%と全国平均の52.4%を大きく上回っています。背景には中規模経営農家の割合が多かったことが挙げられます。さらに県域は約3分の2が平地で、水はけがよい肥沃な大地が広がり、耕地面積は全国3位。温和な気候と豊かな水源に恵まれ、一大消費地である東京に近いことも有利な条件となりました。

日本初の本格的ワイン醸造場

1903(明治36)年、愛知県出身の実業家・神谷傳兵衛が、牛久市に日本初の本格的ワイン醸造場「牛久シャトー」を開設しました。
フランスに現存した醸造場をモデルに、ボルドー地方の技術を用いて、ブドウの栽培からワインの醸造・瓶詰めまでを行いました。最新の外国製機械や技術の導入により、ワインは国内外から高く評価されたといいます。
2007(平成19)年には「近代化産業遺産」に認定、翌年6月には国の重要文化財に指定、2020(令和2)年には「日本遺産」に認定されました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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