フリーワード検索

ジャンルから探す

トップ > カルチャー > 

この記事の目次

栄西(えいさい)

平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の仏教家。日本の臨済宗の開祖。“ようさい”とも言う。8歳で仏教書や注釈書を読み、14歳で比叡山延暦寺にて得度・出家。以後、吉備安養寺・伯耆大山寺(ほうきだいせんじ)などでも天台宗の教学と密教を学ぶ。26歳で南宋に留学し、半年後に帰国。35歳で再び入宋し、39歳で帰国。56歳で鎌倉に下向し、60歳の時に鎌倉幕府の外護で京都に建仁寺を建立。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。

道元(どうげん)

鎌倉時代初期の仏教家。日本の曹洞宗の開祖。12歳で比叡山に行き、13歳で出家。園城寺(おんじょうじ)で天台教学を修め、建仁寺で学び、23歳で南宋へ。25歳の時に南宋曹洞宗の僧・天童如浄の「身心脱落」の言葉を聞いて悟りを開く。2年後に帰国。その後、比叡山から弾圧を受け、43歳で越前に移転。翌年、大佛寺(のちの永平寺)を建立。権勢より離れ、世俗化した仏教の根本からを批判し、仏陀本来の精神に立ち帰ることを唱えた。

河本敏夫(こうもととしお)

日本の政治家、実業家。1911年(明治44年)、兵庫県赤穂郡相生村(現:相生市)生まれ。衆議院議員を17期47年務める。自由民主党政務調査会長をはじめ、通商産業大臣や郵政大臣、経済企画庁長官や沖縄開発庁長官などを歴任。出生地にある相生駅が姫路駅から近距離にもかかわらず山陽新幹線停車駅となったのは、“我田引鉄”によると揶揄された。

本居宣長(もとおりのりなが)

江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。伊勢国松坂出身。荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。8歳で寺子屋に学び、22歳ごろには和歌を詠み始める。その頃、医師を志し、京都へ遊学。27歳で京都から松坂に帰った宣長は、医師を開業。その傍ら、自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。生涯の大半を市井の学者として過ごしたとされている。

波多野秀治(はたのひではる)

戦国時代から安土桃山時代の武将。丹波国八上城主。丹波波多野氏最後の当主。1568年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際は織田氏に従うも、突如反旗を翻す。その後、織田信長の命を受けた明智光秀により八上城攻略が開始され、毛利氏や赤井氏の支援があったものの、1579年に落城。安土城下で処刑され、波多野氏は滅亡した。

太田垣光景(おおたがきみつかげ)

戦国時代の武将。但馬国竹田城初代城主。山名氏家臣。播磨国守護代。但馬守護・山名宗全から竹田城の築城・守備を命ぜられ、竹田城を居城とする。1467年の応仁の乱では、山名氏の配下として従軍。丹波国守護細川氏の勢力が但馬国へ侵攻するも、太田垣氏の奮戦により撃退。以降、太田垣氏は、垣屋氏・八木氏・田結庄氏と“山名四天王”と呼ばれ、勢力を拡大した。

赤松広秀(あかまつひろひで)

戦国時代から安土桃山時代の武将、大名。播磨龍野城主。但馬竹田城城主。赤松広通(あかまつひろみち)、斎村政広(さいむらまさひろ)ともいう。若くして播磨龍野城主となるも、羽柴秀吉による中国攻めで、戦わずに城を明け渡す。以降、播磨で織田信長方として働く。秀吉が播磨を平定した後は、本能寺の変の後も秀吉に属す。小牧・長久手の戦いや四国の役での功績が認められ、但馬竹田城主となる。関ヶ原の戦いでは西軍に与するも、降伏。しかし戦後、徳川家康から切腹を命ぜられた。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!

エリア

トップ > カルチャー > 

この記事に関連するタグ