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金地院崇伝(こんちいんすうでん)

安土桃山時代から江戸時代の仏教家。臨済宗。以心崇伝(いしんすうでん)とも呼ばれる。通称:黒衣宰相(こくえさいしょう)。徳川家康のもとで幕政の中枢を担う。『武家諸法度(ぶけしょはっと)』『寺院法度(じいんはっと)』、『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』などを起草するなど、法律の立案から外交、宗教統制など、さまざまな事案に力を発揮。一人でその職務を担い、幕府の基礎を築いた。

南光坊天海(なんこうぼうてんかい)

安土桃山時代から江戸時代初期の仏教家、大僧正。天台宗。蘆名氏(あしなし)の出自で、陸奥国会津高田に生まれたとされる。会津から関東、そして、比叡山に遊学して、天台宗の教義を修めた。その後、徳川家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。2代将軍・秀忠、3代将軍・家光にも仕え、江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想。1643年に108歳で没した。

藤原鎌足(ふじわらのかまたり)

飛鳥時代の貴族、政治家。中臣鎌足(なかとみのかまたり)。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。密かに蘇我氏打倒を決意し、擁立すべき皇子を探した。645年の『大化の改新』の中心人物。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。後の天智天皇)の側近として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。天智天皇から大織冠(たいしょっかん)を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」姓を賜ったが、翌日に逝去した。

宇田川榕菴(うだがわようあん)

津山藩蘭学者「宇田川三代」の一人で宇田川玄真の養子。近代科学確立に貢献し江戸時代最高の科学者と称され、これまで医学中心だった蘭学を幅広い分野に広げた立役者。
植物の生態や生理などの知識をまとめた、『植学啓原』を刊行し、西洋の植物学を紹介。化学書を翻訳した『舎密開宗(セイミかいそう)』は、多くの図版や自らの実験結果・考察などを加えた、日本初の本格的な化学書となった。義務教育で習う酸素・窒素・炭素などの元素名や、酸化・還元・溶解などの化学用語は、宇田川榕菴が考案したもの。

宇田川玄真(うだがわげんしん)

津山藩蘭学者「宇田川三代」の一人で宇田川玄随の弟子。翻訳の分野で力を発揮し、明治時代になるまで、医学生のバイブルとされた玄真の翻訳書、医学書『医範提綱(いはんていこう)』は、解剖学・生理学・病理学が分かりやすくまとめられており、医学を学ぶ者の教則本となった。『解体新書』では厚腸(こうちょう)・薄腸(はくちょう)と訳されていた言葉を大腸・小腸と言い換え、リンパ腺の「腺」、膵臓(すいぞう)の「膵」の字は宇田川玄真が考案した。

宇田川玄随(うだがわげんずい)

津山藩蘭学者「宇田川三代」の初代。宇田川家は代々漢方医の家系で、津山藩江戸詰の藩医を務めていた。
当初は漢方医として蘭学を嫌っていました玄随だが、『解体新書』の翻訳者の一人・桂川甫周から西洋医学の正確さを学び、蘭方医に転向。藩主の参勤交代に付き従って国元に赴いた1792(寛政4)年には、津山初の人体解剖を行う。その翌年には、オランダ人医師が記した医学書を翻訳した『西説内科撰要』を発行。病気を症状によって分類し、それぞれの定義や原因・治療法を記した全18巻からなる書籍で、日本初の西洋内科の翻訳書といわれている。

今川義元(いまがわよしもと)

戦国時代の駿河国・遠江国の守護大名、戦国大名。今川氏第11代当主。武田信玄や北条氏康と義理の兄弟(姉妹との婚姻関係)。4歳で仏門入り、得度して栴岳承芳(ぜんがくほうしょう)となったが、今川氏を継ぐため還俗。征夷大将軍・足利義晴から偏諱(へんき)を賜り、義元と名乗った。駿河・遠江から三河や尾張の一部にまで領地を拡大。抗争状態の大名たちと“同盟”を結んで関係を強化し、今川家の最盛期を築いた。1560年、『桶狭間の戦い』で織田信長軍に敗れ、討ち取られた。

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