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本多正純(ほんだまさずみ)

安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。江戸幕府の老中。本多正信の嫡男。正信が反逆していた徳川家康のもとに復帰した際、共に家康の家臣となる。『関ヶ原の戦い』に参加し、その後、家康の命令で石田三成の身柄を預かった。家康が江戸に幕府を開くと重用される。家康と父・正信が没した後は、第2代将軍・徳川秀忠の側近となり、年寄(後の老中)となる。が、秀忠や秀忠の側近から疎まれるように。加増を固辞するなどした正純の所業に秀忠が激怒。出羽国横手に幽閉され、死去した。

金地院崇伝(こんちいんすうでん)

安土桃山時代から江戸時代の仏教家。臨済宗。以心崇伝(いしんすうでん)とも呼ばれる。通称:黒衣宰相(こくえさいしょう)。徳川家康のもとで幕政の中枢を担う。『武家諸法度(ぶけしょはっと)』『寺院法度(じいんはっと)』、『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』などを起草するなど、法律の立案から外交、宗教統制など、さまざまな事案に力を発揮。一人でその職務を担い、幕府の基礎を築いた。

天海(てんかい)

安土桃山時代から江戸時代初期の仏教家、大僧正。尊号は南光坊(なんこうぼう)。天台宗。蘆名氏(あしなし)の出自で、陸奥国会津高田に生まれたとされる。会津から関東、そして、比叡山に遊学して、天台宗の教義を修めた。その後、徳川家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。2代将軍・秀忠、3代将軍・家光にも仕え、江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想。1643年に108歳で没した。

藤原鎌足(ふじわらのかまたり)

飛鳥時代の貴族、政治家。中臣鎌足(なかとみのかまたり)。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。密かに蘇我氏打倒を決意し、擁立すべき皇子を探した。645年の『大化の改新』の中心人物。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。後の天智天皇)の側近として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。天智天皇から大織冠(たいしょっかん)を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」姓を賜ったが、翌日に逝去した。

ペリー

マシュー・ペリー。アメリカ合衆国海軍の軍人。江戸時代、鎖国していた日本へ来航した。訪日以前は、蒸気船の建造や灯台施設の改良、士官教育の振興などの功績があり、“蒸気海軍の父”と称された。その後、1853年に東インド艦隊司令長官として、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携え、ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊で浦賀に入港。開国を要求したが猶予を求められたため、翌年、再び来航し、神奈川で日米和親条約を調印した。

大隈重信(おおくましげのぶ)

幕末、明治から大正時代の政治家、教育者。早稲田大学創設者。明治維新において中枢で活躍。参議、大蔵卿、内閣総理大臣、外務大臣などの重要ポストを歴任した。7歳で藩校にて儒教、その後、国学、英語や数学などの洋学、英学などを学ぶ。それにより、外交で手腕を発揮。イギリス公使パークスとの交渉を任され、財政や会計に知識はなかったが、会計官御用掛に任命され、外交懸案だった贋金(がんきん)問題の交渉も行なった。

江川英龍(えがわ ひでたつ)

江戸時代末期の幕臣、伊豆韮山(にらやま)代官。通称:太郎左衛門。号:坦庵(たんあん/たんなん)。二宮尊徳を招聘しての農地改良や、領民への貸付や飢饉時の施しは積極的に行なう一方、自身は倹約に努めたため、“世直し江川大明神”と慕われた。また、早くから海防に強い問題意識を抱き、長崎で近代砲術を学び、幕府にそれを取り入れるよう働きかけ、日本に西洋砲術を普及させた。国防上の観点から、日本で初めてパンを焼いた「パン祖」でもある。

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