フリーワード検索

ジャンルから探す

トップ > カルチャー > 

この記事の目次

中條金之助景昭(ちゅうじょうきんのすけかげあき)

江戸時代後期の旗本。江戸幕府第13代将軍・徳川家定に仕え、剣術・柔術世話心得などを歴任。1867年、第15代将軍・慶喜が大政奉還後、勝海舟らが慶喜を警護する“精鋭隊”を発足。その隊長となり、江戸城から水戸に退く慶喜と共に下り、駿府へ移住の際も同行した。1869年、牧之原荒野の開墾を開始。外貨獲得の輸出品として注目されていた茶の生産を始め、茶の一大生産地となった。

勝海舟(かつかいしゅう)

江戸時代末期から明治時代の武士、政治家。幼名・通称:麟太郎(りんたろう)。諱は義邦(よしくに)、明治維新後は安芳(やすよし)。10代から剣術を学び、兵学と蘭学を学んで、私塾を開く。ペリー来航時の海防意見書で幕府の目に留まり、役職を得る。1860年には遣米使節に随従して、咸臨丸(かんりんまる)で渡米。帰国後、神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には、早期停戦と江戸城無血開城を実現。明治維新後は兵部大丞(ひょうぶだいじょう)に就任し、海軍大輔(たいふ)、参議兼海軍卿などを歴任した。

川越人足(かわごしにんそく)

人を肩や連台といわれる乗り物などに乗せて、川を渡すことを業とする人。川の勾配や川幅などの地形的な問題や水量などで通行が困難とされていた静岡・大井川に多く存在した。その業務を独占的に行うことを幕府から認められ、決められた川渡し場以外の場所を自分で歩いたり泳いだりして川を渡った場合には、幕府から罰せられた。渡り賃(川札)は毎朝、水の深さと川幅を測って決定された。

上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)

室町時代前期の武将、守護大名。関東管領。上杉氏憲(うじのり)。1402年、奥州より侵攻した伊達政宗を撃退。奥州での犬懸上杉家の勢力を拡大させる。1409年、家督を継ぐ。1415年、不仲だった鎌倉公方・足利持氏に所領を没収されたことから、挙兵して持氏を襲撃し、鎌倉を制圧。しかし、室町幕府第4代将軍・足利義持は持氏を支持。幕府軍との戦いの末、鶴岡八幡宮の雪ノ下の坊で自害した。

細川持常(ほそかわもちつね)

室町時代中期の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、阿波・三河守護。細川阿波守護家(讃州家)4代当主。室町幕府第4代将軍・足利義持から偏諱・持常を賜る。第6代将軍となった足利義教(よしのり)に仕えた。1440年、義教と対立した守護大名・一色義貫を暗殺し、元々の阿波に加え、三河を与えられる。翌年、義教は対立していた守護大名・赤松満祐に暗殺されたため、赤松氏の領国に攻め込み、満祐を討ち取った。

一色義貫(いっしきよしつら)

室町時代中期の武将、守護大名。丹後一色氏当主。室町幕府第4代将軍・足利義持より偏諱・義範を賜る。後に義貫と改名。1409年、家督を継ぐ。1418年には4つの国の守護大名となる。1427年、前将軍・義持に反発して挙兵準備をしていた守護大名・赤松満祐討伐の命を受けたが出兵を拒否。第6代将軍・義教の頃には対立が深まる。1440年、義教から追討を受け、武田氏に謀殺された。

土岐持頼(ときもちより)

室町時代中期の武将、守護大名。伊勢守護。土岐世保家の3代当主。世保持頼(よやすもちより)ともいわれる。1417年、父・康政より家督を継いで伊勢守護に。だが、室町幕府第4代将軍・足利義持の弟の義嗣による将軍打倒計画が発覚。関与した疑いで、伊勢守護職解任。後に、伊勢守護に再任。伊勢国司・北畠満雅(きたばたけみつまさ)が南朝の後胤・小倉宮聖承(おぐらのみやせいしょう)を擁して乱を起こした際、第6代将軍・義教の命で満雅を討つ。その後も義教に仕えたが、徐々に対立。1440年、密命を受けた細川氏らに攻められて自害した。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!

エリア

トップ > カルチャー > 

この記事に関連するタグ