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高望王(たかもちおう)

平安時代中期の賜姓皇族。平高望(たいらのたかもち)。桓武天皇のひ孫。高望王流桓武平氏の祖。889年、宇多天皇の勅命で臣籍降下。898年、上総介に任官。子どもたちと共に任地に赴き、地元勢力との関係を深め、常陸国・下総国・上総国を開発。退官後も住み続け、勢力を拡大。しかし、902年に西海道(さいかいどう/にしのみち)(現:九州地方)の国司となり大宰府に移住。911年、同地で没。

平将恒(たいらのまさつね)

平安時代中期から後期の豪族、武将。武蔵国の名門・秩父氏の祖。諱:将常。母方の祖父が平将門。1023年、勅命に反して挙兵した武蔵介・藤原真枝征伐の命を受け、相模・上総の兵を率いてこれを鎮圧。駿河・武蔵・上総・下総に領地を得た。1028年、兄・忠常が『平忠常の乱』を起こすも、自身は加担しなかった。前九年の役にて戦死。武蔵国秩父郡にて秩父氏を称し、代々、秩父平氏として武蔵国各地に勢力を拡大した。

平武綱(たいらのたけつな)

平安時代後期の武将、豪族。平将門の玄孫。通称:武者十郎。秩父武綱、河崎基家とも称される。前九年の役・後三年の役で、源頼義(みなもとのよりよし)・源義家(みなもとのよしいえ)父子に従って戦った。後三年の役では先陣を務め、軍功をたてた。それにより、“河崎土佐守基家”の名と、武蔵国谷盛庄を賜った。子孫に畠山重忠、河越重頼、江戸重長、渋谷光重など、源頼朝の平家追伐に協力した有力な坂東武者が多数いる。

三浦為通(みうらためみち)

平安時代後期の武将、豪族。三浦氏の祖とされる。通称:三浦平大夫。前九年の役に参加し、その功績が認められて三浦半島を与えられ、三浦氏を名乗ったとされる。三浦半島の中央部にある衣笠山に城を築いた。また、子孫は代々源氏と深く繋がり、相模国で大きな勢力を持った。しかし、数種類現存する三浦氏の家系図の中に為通の記載がないものがあることから、その実在を疑う説もある。

源頼義(みなもとのよりよし)

平安時代中期の武将。河内源氏初代棟梁・源頼信(みなもとのよりのぶ)の嫡男。河内源氏2代目棟梁。1031年、『平忠常(たいらのただつね)の乱』を収束させた。1036年、相模守に任じられる。1051年、『前九年の役』が起こり、陸奥守・藤原登任(ふじわらのなりとう)が更迭され、その後任となる。鎮守府将軍を兼任し、奥州の騒乱の平定を期待された。が、苦戦し、1062年の『前九年の役』で陸奥の有力武将・安部氏を滅ぼした。

佐原盛時(さはら/さわらもりとき)

鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。三浦盛時(みうらもりとき)。三浦氏佐原流。母・矢部禅尼(やべぜんに)は最初に北条泰時に嫁ぎ、離縁して佐原盛連(さはら/さわらもりつら)に嫁いだことから、北条時氏とは異父兄弟の関係にあり、得宗との結びつきが強かった。『宝治合戦』では三浦泰村らと行動を共にせず、佐原流一族を率いて甥の北条時頼に加勢。本家三浦氏は滅んだが、三浦介に任命され、三浦宗家の家督を継承した。しかし、待遇は佐原氏のままであった。

三浦義同(みうらよしあつ)

戦国時代初期の武将。出家後の三浦道寸(みうらどうすん)の名を知られている。相模三浦氏の最後の当主。扇谷上杉家・上杉高救(うえすぎたかひら)の子。相模国新井城主・三浦時高の養子。時高に実子・高教(たかのり)が誕生し、不仲となる。1494年、時高・高教親子を滅ぼし、三浦家当主と相模守護代になる。その後、相模国岡崎城を居城としたが、伊勢宗瑞(いせそうずい)[北条早雲]に攻められ、新井城に退いて立て籠るも、子・義意(よしおき)と共に討死。三浦氏は滅亡した。

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