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浅野総一郎(あさのそういちろう)

明治の実業家。一代で財閥を築いた。越中国より23歳で上京。さまざまな職種・ジャンルで着々と次の商売への資金を作り、横浜で薪炭・石炭商となる。その後、官営深川セメント製造所の払い下げ、コークス運搬のための運搬業など多数の会社を保有・設立。1896年には欧米の港湾開発を視察し、帰国後、港湾の近代化や、工場を一体化した日本初の臨海工業地帯建設を独自で計画し、完成される。「京浜工業地帯の父」。

中條政恒(なかじょうまさつね)

幕末の武士。米沢藩の勤学生として勉学に励み、東北地方に関し研究。蝦夷地にも足を運び、開拓の可能性を検討した。明治維新後、福島県典事となり、安積原野(現在の福島県郡山市)の開拓に着手。桑野村を誕生させ、さらに、猪苗代湖を開削して水路を通すことを明治政府に建言して実現させるなど、福島県の原野の開墾に尽力し「安積開拓の父」と呼ばれた。

ファン=ドールン

オランダの土木技術者。明治時代、日本政府の招聘により来日。約8年間にわたって日本全国の河川・港湾の整備計画を立て、オランダ人土木技師のリーダーを務めた。大きな成果を上げた安積疏水事業をはじめ、利根川、淀川、信濃川などの改修、野蒜港(失敗に終わった)、函館港など数多くの港湾建設にも携わった。経験だけに頼っていた日本の技術に西欧の科学的手法を取り入れ、日本の近代土木事業の基礎を築いたと言われている。

三島通庸(みしまみちつね)

幕末から明治時代にかけての武士(薩摩藩)、官僚。尊王攘夷運動、戊辰戦争で活躍。その功績が認められ、1871年に東京府参事となり、東京銀座煉瓦街建設など都市計画の行政側の責任者となる。その後、鶴岡県(酒田県)・山形県令に就任。公共施設の建築などの都市整備事業や、道路開通・橋梁などの整備事業、米沢製糸場建設など、多くの実績を残し、山形県の振興に尽力した。

高橋由一(たかはしゆいち)

洋画家。近代洋画の父。幼少時から絵筆をとり、狩野派を学ぶ。藩の勤務が忙しく、独学で画を学ぶ。明治時代に入り、官職を務めるも、後に辞して画塾「天絵舎」を創設し、多くの弟子を養成。自身も外国人画家などとの交流から作画などを学ぶ。元老院の依頼で明治天皇の肖像を描いたり、山形県令である三島通庸の要請で、三島の行なった数々の土木工事の記録画(「栗子山隧道図西洞門」など)を描くなど、多岐に渡って活躍した。

三春駒(みはるごま)

福島県田村地方産の馬。江戸時代の後期から近代にかけ、野生の馬に積極的な品種改良を行ない、良馬を生産。三春藩三代藩主秋田輝季の時代に、三春藩の重要な産業となり、多くの良馬を産出する馬の名産地となった。洋種の馬が輸入されるまで、南部駒とともに全国に知られた存在で、南部駒に比べて軽小で、乗用に適しているとされ、民衆から広く愛された。

大島要三(おおしまようぞう)

明治から昭和初期の実業家、政治家。東北線鉄道敷設工事の下請けに始まり、全国各地の鉄道工事を請け負い、成功をおさめる。福島電灯社長、福島民友新聞社長、福島貯蓄銀行監査役など、福島県内の企業の役員などを多数務め、福島商業会議所(現在の福島商工会議所)の設立や、福島競馬場の開設に尽力。福島市制施行後初の市会議員となった後、県選出の衆議院議員に転身した。

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