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織田信長の戦略地図~尾張を統一後、上洛を見据えて美濃攻略へ

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月13日

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織田信長の戦略地図~尾張を統一後、上洛を見据えて美濃攻略へ

織田信長の時代
群雄割拠のなか、尾張に織田信長が登場し、前時代の有力大名・今川義元を討ち取ります。群雄が領土争いに明け暮れるなか、天下統一を見据えた信長は、上洛を目指した戦略をもとに美濃・伊勢を攻略していく。ここに天下統一へ向けた戦いが始まります!

桶狭間の戦いで義元を討ち取る逆転勝利!美濃三人衆を調略し宿敵齊藤氏を美濃から追いだします。将軍・義昭を擁して京に君臨し諸大名に号令をかけました。比叡山焼き討ちにより包囲網に風穴を開けました。信長包囲網を各個撃破し息を吹き返します。11年にわたる戦いの末本願寺を降します。

織田信長の戦略地図① 桶狭間~美濃制圧

尾張を統一後、上洛を見据えて美濃攻略に乗り出しました。

桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る逆転勝利!

織田信長は、尾張守護代(おわりしゅごだい)家の三奉行(ぶぎょう)のひとりという身分から、尾張の一大勢力に上り詰めた織田信秀(のぶひで)の嫡男(ちゃくなん)として生まれました。

若い頃は異様な風体(ふうてい)を好み「大うつけ」と評されましたが、父の死後、親衛隊「馬廻衆(うままわりしゅう)」の機動力を駆使して尾張国内の反勢力を一掃。謀反を企んだ弟の信勝(のぶかつ)や守護代織田家も滅ぼし、永禄(えいろく)2年(1559)までにほぼ尾張を平定しました。

しかし翌年の永禄3年(1560)、駿河(するが)の今川義元(いまがわよしもと)が尾張へ大挙来襲。信長は早くも滅亡の危機を迎えました。

圧倒的劣勢の信長でしたが、桶狭間の戦いでなんと大将の義元を討ち取るという大勝利を上げ、その名を轟(とどろ)かせました。その後信長は、弱体化した今川家から自立した三河の徳川家康(とくがわいえやす)(松平元康(まつだいらもとやす))と清須(きよす)同盟を結び、東の備えを固めました。

この同盟は叛服(はんぷく)常なき戦国の世にあって、信長の死まで継続した稀有(けう)な盟約となりました。

美濃制圧へ至る織田信長の動き

父・信秀の没後、織田信勝ら尾張国内の反対勢力を一掃した織田信長は、永禄3年(1560)、大挙尾張へ侵入してきた今川義元の大軍を桶狭間の戦いにて打ち破ります。今川家の弱体化を見た信長は、三河の徳川家康と同盟を結んで東の備えとし、自身は小牧山城へ本拠を移して美濃攻略に注力しました。

美濃三人衆を調略し宿敵齊藤氏を美濃から追う

以降の信長は上洛(じょうらく)も見据え、斎藤氏が支配する美濃(みの)の攻略に邁進します。道三(どうさん)の孫龍興(たつおき)が率いる斎藤軍の粘り強い抵抗に対し、信長は本拠を美濃国境近くの小牧山(こまきやま)に移すと、美濃攻略が一気に加速。美濃南部を攻略したのを皮切りに、勢力を広げ、永禄10年(1567)には、稲葉良通(よしみち)ら美濃三人衆を寝返らせ、8月、ついに斎藤氏の本拠・稲葉山城を攻略しました。

戦国の豆知識:織田信長の桶狭間~美濃制圧

居城を移すという戦略は当時の戦国武将には珍しい選択でした。ただこれが信長のオリジナルかといえばそうではなく、父の信秀も実は勝幡城から那古野城、さらには古渡城、末森城と居城を移しています。

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