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13人の合議制とは?カリスマ源頼朝の死後、鎌倉の幕政の主導権を握った

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月20日

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13人の合議制とは?カリスマ源頼朝の死後、鎌倉の幕政の主導権を握った

2代将軍源頼家はまだ若く指導力不足だったため、幕政は 13人の重臣たちによる合議制で運営されることになりました。

その13人のなかでも、比企能員は源頼朝が梶原景時とともに最も頼りにしていた御家人です。しかし、北条時政はその比企能員を粛清し、自らの権勢を高めていきました。

13人の合議制で運営されることとなった鎌倉幕府

【要点はココ】
◎若い源頼家は幕府の重臣たちに嫌われてしまいました。
◎重臣たちは将軍である頼家を権力から遠ざけ、13人の合議制で幕政を運営することにしました。

鎌倉殿の13人に権限を誓約されることとなった源頼家

源頼朝の死後、1199(建久10)年に家督を継いだのが18歳の長男源頼家でした。

しかし、頼家はそれからわずか3カ月で訴訟を直接裁断することを禁止されるなど、権限を制約されてしまいます。若い頼家は父の頼朝のような独善的な政治を行おうとしたのですが、幕府の重臣たちがそのスタイルを嫌ったためといわれています。

そしてまもなく幕政は、鎌倉殿の13人の重臣による合議制で運営されることになったのです。

幕政は鎌倉殿の13人の合議制へ

13人は2つのグループに分けられます。

ひとつは有力な御家人たちのグループ。初代執権北条時政、時政の次男で2代執権北条義時、相模(さがみ)の豪族三浦義澄、下野(しもつけ)の豪族八田知家(はったともいえ)、侍所別当和田義盛、武蔵の豪族比企能員(ひきよしかず)、頼朝の流人時代からの側近安達盛長(あだちもりなが)、頼朝の父義朝(よしとも)の時代から仕えていた武蔵の在郷武士足立遠元(あだちとおもと)、2代侍所別当梶原景時(かじわらかげとき)です。

もうひとつは京都から下ってきた官人たちのグループで、政所別当大江広元(おおえのひろもと)、問注所執事三善康信(みよしのやすのぶ)、広元の兄で公事奉行人や京都守護をつとめた中原親能(なかはらのちかよし)、幕府の吏僚(りりょう)二階堂行政(にかいどうゆきまさ)が該当します。

彼ら13人の談合によって幕政が行われることになり、頼家は微妙な立場に追いやられてしまいました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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