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南北朝時代~朝廷が分裂して天皇が2人に!北朝と南朝の攻防

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月20日

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南北朝時代~朝廷が分裂して天皇が2人に!北朝と南朝の攻防

約60年間にわたる南北朝時代、両朝廷からそれぞれ天皇が即位したため、同時期に2人の天皇が存在することになりました。こうした事態は、この時期以外にありません。

南北朝時代の北朝と南朝の攻防がはじまる

【要点はココ!】
◎京都から逃れた後醍醐天皇が吉野に南朝を樹立し、南北朝時代がはじまりました。
◎南北朝の戦いは北朝優位で進みました。
◎室町幕府開創期、尊氏・直義の二頭政治が行われました。

2つの朝廷と2人の天皇

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後醍醐天皇が新朝廷を開く!

足利尊氏後醍醐天皇が和解し、室町幕府が本格的にはじまろうとしていた1336(建武3)年12月、日本史上でも前代未聞の大事件が発生しました。後醍醐天皇が京都を脱出して吉野へ逃れ、「光明天皇(こうみょうてんのう)に渡した三種の神器(じんぎ)は偽物で、本物は私が所有している。つまり、正統な天皇は私である」と宣言し、新たな朝廷を開いたのです。

それまで朝廷はひとつであり、万世一系(ばんせいいっけい)の皇統を維持していました。しかし、後醍醐天皇が新朝廷を創設したことで、京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)に二分され、2人の天皇が並び立つ異常事態に陥ってしまったのです。これ以降、約60年間にわたる朝廷、分立の時代を南北朝時代といいます。

南朝は早々に劣勢を強いられた

まもなく後醍醐天皇方の武士たちが各地で挙兵し、両朝延は抗争に突入しました。

しかし、南朝が北朝と互角に戦えたのはわずかな期間でした。1338(延元(えんげん)3・暦応(りゃくおう)元)年、南朝の主力北畠顕家(きたばたけあきいえ)が京都へ入る前に戦死したのに続いて、新田義貞も越前で討ち死にし、急速に力を失ったのです。

そうしたなか、足利尊氏は同年8月に征夷大将軍に任命されます。これによって名実ともに幕府が成立すると、弟足利直義(ただよし)と二頭体制で幕府開創期の政治を進めていきました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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