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応仁・文明の乱の勃発で戦国時代に突入~東軍と西軍が京都を舞台に戦闘を繰り広げる~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月22日

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応仁・文明の乱の勃発で戦国時代に突入~東軍と西軍が京都を舞台に戦闘を繰り広げる~

全国の有力守護が東西両軍に分かれて争う応仁・文明の乱は、管領家の家督争いに幕府の実力者である細川氏・山名氏の勢力争いが絡んで起こりました。

応仁・文明の乱は将軍家、管領家、守護大名家などさまざまな思惑が大乱を生んだ

【要点はココ!】
◎管領家、守護大名家の家督・勢力争いが大乱の主因となりました。
◎細川勝元率いる東軍と山名持豊率いる西軍が京都を舞台に戦闘を繰り広げました。
◎将軍家も混乱の渦中にあり、東西両軍とも関係者の引き抜きを行いました。

応仁・文明の乱の勢力図

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応仁・文明の乱で東軍陣営と西軍陣営が争う

8代将軍足利義政(よしまさ)の時代、応仁の乱が勃発し、京都を舞台に11年間も戦闘が続きました。この大乱の主因となったのが、管領家や守護大名家の家督・勢力争いです。

まず幕府の実権を握っていた管領の畠山(はたけやま)氏斯波(しば)氏が家督争いをはじめ、両氏の各陣営は有力な守護大名山名氏や細川氏を頼りました。その結果、山名氏対細川氏という対立構図が出来上がります。

そして1467(応仁元)年1月、畠山義就(よしひろ)政長(まさなが)が京都で衝突すると、大乱の火蓋が切られます。京都に集結した有力な守護たちは細川勝元率いる東軍、あるいは山名持豊(宗全(そうぜん))率いる西軍に属して戦闘を繰り広げるようになったのです。

応仁の乱では将軍家も混乱していた

その頃、将軍家では足利義視(よしみ)(義政の弟)と足利義尚(よしひさ)(義政と日野富子(ひのとみこ)の子)という2人の後継者候補が並び立っていました。

東軍は義政と義視を自陣営に抱え込み、戦局を優位に展開していきます。一方、西軍は守護大名大内政弘(おおうちまさひろ)を味方につけて反抗。さらにその後、義視が東軍を離れて西軍に加わると、西軍は勢いを増しました。こうして応仁の乱は進み、長期化していったのです。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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