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日野富子とはどんな人物で何に影響を与えたか?

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月22日

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日野富子とはどんな人物で何に影響を与えたか?

日野富子は決して悪女ではなく、わが子のため、幕府のために献身的に動いてた女性でした。

日野富子はわが子を将軍にしたかった

「日本三大悪女」といわれる3人の女性のなかに、8代将軍足利義政の正室(せいしつ)である日野富子(ひのとみこ)がいます。わが子足利義尚(よしひさ)を将軍にしたい日野富子が、陰謀を企てたことで応仁の乱が勃発したといわれ、稀代の悪女とみなされるようになったのです。

しかし近年では、「日野富子=応仁・文明の乱の火付け役」という見方は誤りとの声が大きくなっています。

確かに日野富子は、義尚を将軍の座につけたいと考えていました。ただし、日野富子が大乱の引き金を引いたわけではありません。彼女は義尚を将軍にするにはどちらの陣営につけば有利かを見定めて動いただけであり、主因は管領家や有力な守護大名家の家督争い・勢力争いだったといわれているのです。

応仁の乱の対立構図

将軍家の後継者争いが応仁・文明の乱の原因のひとつであったとしても、主因は管領家や有力な守護大名家の家督争い・勢力争いだったと考えられています。

日野富子の前半生

1440(永享12)年
誕生。

1455(康正元)年
8代将軍足利義政に嫁ぎます。

1464(寛正5)年
義政が弟の義視(よしみ)を養子として迎え、次期将軍と決めます。

1465(寛正6)年
義尚(よしひさ)を出産。

1466(文正元)年
伊勢貞親(いせさだちか)が義視排斥に失敗。日野富子は山名持豊(やまなもちとよ)に義尚の後見を頼みます。

日野富子「義尚を次の将軍に!」
『応仁記』によると、実子の義尚を将軍にするため、有力守護大名山名持豊と結び、義視を推す細川勝元と対立しました。

1467(応仁元)年
応仁・文明の乱勃発。

1473(文明5)年
9歳の義尚が9代将軍に就任。

日野富子「夫(義政)の代わりに幕府の収入を増やさねば!」
義尚の将軍就任後、日野富子は幕政への関与を強めます。高利貸し、米の投機、関所の新設による関銭の徴収などで蓄財をはかります。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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