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「安徳天皇は生きていた」という驚くべき内容

その古文書は、藤原経房(ふじわらつねふさ)という人が、息子の左古麿(さこまろ)に当てた遺書で、彼は平清盛(たいらのきよもり)の妻(二位の尼・平時子)の命により、壇の浦の戦場から、幼帝安徳天皇を守って、ここ摂津の山里、能勢まで逃れて来たこと、そして一年後に帝はこの地で崩御されたが、その陵墓を守って、能勢に住みついたことなどが書かれていたのです。

経房の官位は、従四位上侍従行左少辨(じゅしいじょうじゅうぎょうさしょうべん)(弁)と記されていました。
遺書の日付けは建保5(1217)年、文化14年からさかのぼることちょうど600年前でした。
驚いた大南は、それを書き写して、能勢家の江戸屋敷へ送った。当時の能勢藩主は能勢帯刀(のせたてわき)という人でしたが、その家臣の東範平(ひがしはんぺい)にあてたものです。

八十一代の安徳天皇は、寿永4乙巳(きのとみ)年3月24日に壇の浦で御入水して亡くなられたとされています。御年は8歳でした。ところが実は文治3年5月17日能勢の出野村で崩御され、当地の八幡様にお祀りしています。亡くなられた御年も10歳でした。そして亡くなられてから今日までで、631年になります。

その後も、大南久太郎は、自ら知り得たこと、調べたことを、詳しく書状にしたためて江戸へ送っています。

「安徳天皇は生きていた」という遺書はなぜ書かれた?

藤原経房の遺書の一部を現代語の訳文で抜粋します。基本的には仮名遣いも現代語とし、当用漢字を用いています。 また、 読みやすくするために、原文にはない句読点、改行 濁点、ルビなどをつけ加えました。 また、読み取れなかったとされている箇所は[ ]で示し、推測して文字を入れています。

藤原経房の遺書の内容「遺書を残した動機」

今年建保5年丑年(うしどし)の7月5日に源のすけが亡くなられた。御歳は55歳だった。まだ惜しい年齢なのに、人生とは無常ではかないものだ。種長は19年前に亡くなり、景家は13年前に亡くなった。種長の忘れ形身である刑部太郎は28歳になり、景家の息子小治郎と平三はともに20歳過ぎだ。
わが息子左古麿は26歳になるが、よく田畑を耕し、私を養ってくれている。
しかし、これらの者は出来事の原因をはっきりとは知らない。私も、今年50歳になった、もし今日にでも死んでしまえば、後の子孫にも知っている者がいなくなってしまうだろう。

これまでは、自分の口からは語らないように気をつけてきた。もし世の中に知れわたったなら、まさか首をはねられるということはないにしても、見知らぬ島へ流されるかも知れない。壇の浦で消えてしまった私の名より、さらに不名誉な名前が後の世に伝え記されることになるだろうと思うと、気分が沈んでしまう。過ぎた昔のことは、思い出すと涙ばかりがこぼれて、あまり思い出せない。前後あちこちする文章になるだろう。

「遺書を残した動機」の解説

藤原経房によって遺書が書かれたのは建保5年は西暦1217年で、今から約800年前のことです。源平の戦いで、平家一党が壇の浦に滅んだ元暦2(1185)年からは32年後ということになります。

鎌倉幕府を開いた源頼朝は、正治元(1199)年に死亡、落馬が原因だとも脳いっ血だとも伝えられます。ついで頼朝の子源頼家が征夷大将軍を継ぐも、北条頼政によって幽閉、殺害されます。実権は頼朝の妻北条政子の一族に移っていますが、ここで頼朝の次男実朝を二代将軍とし、さらにこれも承久元(1119)年には、頼家の子公暁によって殺されてしまうのですが、その2年前にこの遺書は書かれていたことになります。

すでに平家の残党狩りの噂も少なくなってはいたでしょうが、藤原経房はなおもおびえています。なんといっても、平家の権威・権力の象徴である安徳天皇を壇の浦から連れ出した張本人と目されても仕方がない、時代は源氏・北条の世なのです。
ともに逃れて来た種長(大輔判官種長:たゆうはんがんたねなが)も景家(郡司景家:ぐんじかげいえ)も亡くなって久しくなります。そしていま、力を合わせて安徳天皇の陵墓を守ってきた源の典侍(みなもとのすけ)も亡くなってしまいました。自分もよわい50歳、息子に養ってもらう身になっています。勇を鼓して、あのことを子孫に伝えておきたい、いや伝えておかなければと筆をとったのです。

「安徳天皇は生きていた」というに滝沢馬琴も関心をもつ

この遺書の発見は、江戸をはじめ、京・上方でも噂になり、学者や文人などはおおいに興味をもったのです。
『里見八犬伝』の作者滝沢馬琴(たきざわばきん:1767~1848年)は、その随筆集『玄同放言』の中で、このように述べています。

摂津の国能勢の農家で、奇書が見つかったらしい。それによると、寿永の源平のいくさのとき、安徳天皇に従って来た藤原朝臣(あそん)経房の遺書であるとのこと。
その書によれば、古い戦記物の記事とは違い、先帝安徳天皇は、無事に壇の浦の戦場をお出になって、能勢のあたりに潜んでおられたとのことである。
京の森嶋守近(もりしまもりちか)が、この噂を聞いて私に教えてくれたので、私もなんとか、これを見たいと切望して二年になるが、守近がやっと手に入れてくれて、その写本を見ることができた。

当時の流行作家の馬琴にしても、この遺書を見たいと2年間思い続けて、やっと写本を見ることができたといいます。

藤原経房の遺書に対する滝沢馬琴の見解

滝沢馬琴は「灯火の下で読みふけったが」「つやつや(とても)信じがたきものなり」と断じ、これは誰か物好きが書いた小説であろうとしました。
馬琴は、この遺書にふれながら、さまざま持論を展開していますが、作り物だと断定した第一印象に疑問は感じなかったようで、あくまで贋物だという立場を変えませんでした。
また、当時の本居派の国学者伴信友(ばんのぶとも:1772~1846年)も、誰が何のために「かかるあとなしごとの偽妄文作り出したりけむ、いと憎し」と、口を極めて罵っています。

しかし一方、上方の文人木村兼葭堂(きむらけんかどう)(二代目)のように「土地の有様や遺書にある人物の子孫など、よく符合しているので、馬琴のように、『物好きが書いた小說』などと軽々しく言うべきではない」(『兼葭堂雑禄』)と擁護している人たちも多かったようです。

ただ肯定論、否定論いずれにしても、一方的に否定するか、部分的な解説のみで、さらに究明されることはなく、結局、数年でブームは去りました。

「安徳天皇は生きていた」という藤原経房の遺書は義経伝説とは異なる

その後も、個々に関心を持った人はいたといいますが、研究書もなく、活字印刷などにもなっていません。
昭和も終わりに近く、地元の研究者たちが、積極的に取り組んで一冊の本、『能勢に潜幸された安徳天皇』(平成4年発行)を上梓しました。この本は資料中心にまとめられたもので、一般の人にはやや馴染みにくいものだったようです。
筆者は、平成12年の夏、能勢妙見山の上で、この遺書について話をする機会を得て、能勢町・豊能町を中心にした100人ほどの人にこの話をしました。ほとんどの人は、安徳天皇に関する伝承が、この地方にあるということはご存知だったようですが、その中身については、義経伝説と同じような「貴種流離譚」(身分の高い人が各地をさまよう伝説)だと思っている人が多かったのです。全文を読んだことがあるという人はほとんどいませんでした。

これはいわゆる伝説ではありません。藤原経房の遺書は、それが真実かどうかは別にして、とにかく古文書が存在していたということは疑いのない事実なのです。その内容がどういうものなのか、それをできるだけ多くの人に知ってもらいたいのです。その上で、作り物か、それとも実際の出来事の記録か考えてもらえればと思います。

「安徳天皇は生きていた」という遺書の原書は紛失したが、写本は多い

ところで、かなりの写本が出回っていたのは確かです。現在、大阪府立図書館や国立公文書館(東京)などに保管されているものだけでも20種類近くあります。
写本の出所としては、大南久太郎が江戸屋敷に送ったもののほか、京都に住む息子に乞われて書き写して送ったもの、さらにそれをまた写したものなどがありますが、大南のものは誤字や誤写が多かったようです。滝沢馬琴や伴信友が見たのも、その一つではないかと思われます。
原書は、一時江戸屋敷に送られたらしいですが、すぐに能勢に送り返されて来ました。その後、辻家で大切に保存されていましたが、明治33年、辻家の縁者が、真贋の鑑定をしてもらおうと、京都の鑑定士のところへ持ち込んで、それっきり所在がわからなくなってしまいました。八方手をつくしましたが、ついに見つからなかったということです。

いま遺書の原物があれば、現在の技術なら、たとえ800年前のものでも、おそらく書かれた年代を識別・鑑定することができたであろうでしょうに、残念なことです。 いまとなっては、当時作られた写本に頼るほかありません。

写本製作者「山川正宣」のこと

能勢藩国家老の大南久太郎は、さらに確かな人に見てもらいたいと、能勢に隣する池田(現大阪府池田市)に住む山川正宣(やまかわまさのぶ)という国学者に遺書の鑑定を依頼しました。依頼された山川正宣は、600年前のものであろうと証言し内容に感動して、一字一句間違いなく、筆跡も真似て書写したといいます。
山川正宣は、地方の地味な学者ではありましたが、考証学の面ではかなりの実績をあげていた人だったようで、各種の人名辞典にその名が見えます。

「安徳天皇は生きていた」という遺書についての地元研究家の足跡

昭和50年代後半、藤原経房の遺書に着目した地元の郷土史研究家による、精力的な調査研究が行われました。実際に他の地方の安徳陵参考地(宮内庁が安徳天皇陵の参考として指定した陵墓)にも出掛け、さらに二度、宮内庁を訪ね、この遺書が本物であることを説いています。

宮内庁の当時の課長もほとんど認めたんですよ、でも、原物がないことなどを理由に、正式には認めてくれませんでした」と、明治37年生れの野木圓之助さん(平成12年逝去)は、当時を振り返って、残念そうに話してくれました。そして、「古いことは覚えてないが」といいながら「一冊ぐらい残っているでしょう」と、出して来てくれたのが、『能勢に潜幸された安徳天皇』(野木圓之助編・平成四年発行)という本でした。

『能勢に潜幸された安徳天皇』とは

これは能勢町の歴史研究家の故森本弌氏(元中学校長)が中心になって資料部分を執筆し、能勢町史の編纂に携わっている田和好氏が、安徳天皇陵墓とされている能勢の八幡社の出土物や周辺の地形などの考証にあたっており、野木氏は、前文と第五章で、この遺書がほんものだということを、情熱を込めて語っています

能勢藩御用人大南久太郎が江戸の能勢家や息子に書き送った書状と先に掲げた各種写本の調査など、発見時の文献についてはこの中から使用させていただきました。ただし、大南の書状などは原文のままではなく、現代文に訳して載せています。
また、安徳天皇の遺品を埋めたとされる能勢八幡社やこの地方の地形及び風俗習慣などについては、そのまま同書を参考にさせていただきました。

写本一覧-『能勢に潜幸された安徳天皇』より

『能勢に潜幸された安徳天皇』(野木 園之助編)に記載されている写本の一覧表

・経房遺書(大南本):能勢町・能多家所蔵
・安徳帝於壇浦御入水無之事(會我本):大阪府立図書館
・藤原経房遺書(山川本(和田本)):池田氏・和田家所蔵
・摂州能勢郡若宮八幡宮紀事全(内閣文庫3476):公文書館
・摂州能勢郡若宮八幡宮紀事(田村本):川崎市・田村家所蔵
・藤原経房朝臣自記全(內閣文庫18721):公文書館
・摂能勢郡出野村建保五年古文書写(內閣文庫9077):公文書館
・養和帝西巡記全(內閣文庫93691):公文書館
・安德帝外記摂州若宮八幡宮紀事(宮内庁田中本):宫内厅
・能勢古事安德帝御記写全(辻本):能勢町・辻家所蔵
・能勢古事安德帝御記写全(津田本):能勢町・津田家所蔵
・辻家旧記全(內閣文庫76651):公文書館
・能勢古文書(東京大学本):東京大学
・安德帝御旧跡記全(油屋本):大阪府立図書館
・摂州能勢郡出野村岩崎八幡宮(兼葭堂雜禄巻之四):大阪府立図書館
・藤原経房(玄同放言巻三ノ中)(滝沢本):大阪府立図書館
・残桜記下(伴信友本):大阪府立図書館

※これ以外にも多数あるようだが、公に認められているものだけを掲載

「安徳天皇は生きていた」という遺書を書いた「藤原経房」とは別人の同姓同名の有名人が存在した

この遺書を書いた藤原経房(ふじわらつねふさ)とは別人で同姓同名の有名人が、当時実在していました。
藤原経房は当時の重要人物の一人として、多くの書物にかなり頻繁に出て来ます。 江戸末期にこの遺書が見つかったあとの騒動で、これが偽ものだと言われた所以も、あの「藤原経房」が、こんなものを書くはずがないということが、多くの人にあったことは間違いないでしょう。

もう一人の藤原経房-吉田経房(よしだつねふさ)

遺書の執筆者とは別人の藤原経房が活躍するのは、『平家物語』などでは源氏の世になってからです。巻十二に「吉田大納言の沙汰」という一章が設けられています。
この章は、幕府を開いた源頼朝が惣追捕使に任ぜられて、反別に兵糧米の供出を割り当てるについて、全国に守護地頭を置きたいと希望し、これを経房を通じて、後白河院に奏上して許されています。当時の政治の中で、公武の間を取り持つという重要な役割を担っていた人物であることが分ります。

吉田経房が遺書を書いた人物とは別人という根拠

吉田大納言という呼び名のほか、その時の官職に応じて、左大弁、勘解油小路、橋中納言経房などとも呼ばれていますが、『吾妻鏡』では、そのほか、太宰権師・帥中納言・師卿・民部卿・権中納言・吉田中納言など様々な呼び名があり、百箇所以上に現れています。

弁官というのは、主として太政官などからの命令や通達を発布する官職で、能筆家であるとともに、文章、当時はとくに漢文にも長けていなければなりませんでした。
弁官は、大、中、少があり、それぞれ左、右がありました。左大弁がその最高位であり、政治的に相当の力を持っていた官職です。いまで言えば、内閣官房長官ほどかもしれません。
吉田経房は、蔵人頭などを経て、弁官の長である左大弁になり、建久9年(1199)年には、正二位権大納言になっています。康治2年(1143)生れで、正治2年(1200)、58歳で亡くなっています。すなわち、遺書の書かれた建保5年より17年も前に亡くなっているので遺書を書いた経房ではあり得ません
吉田経房の家系は、藤氏勧修寺流といい、代々弁官であるとともに、もの書きの家系といってよいほどです。

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