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渋沢栄一が信州へ行く道を予測してみた!

渋沢栄一の住んでいた深谷市血洗島から信州へアクセスできる道はいくつかありますが、まずは栄一が信州のどこへ藍を買い付けに行ったかのかを知ることがルートを予測するための手がかりになります。そこで、資料から探してみると岩村田藩領丸子依田地域や上丸子村へ行ったとあります。これらの地域は現在の長野県上田市上丸子にあたります。

この地域の街道で最初に考えられるのが「中山道」です。渋沢栄一の住んでいた血洗島は中山道に近く、中山道を使って高崎や安中を経由して碓氷峠(現在の旧碓氷峠)を越えて行けば丸子依田地域や上丸子村にたどり着くことができます。

道も整備されており、安全かつ気候に左右されることが少なく、安定した旅程を組むことができるでしょう。しかし、中山道は今でいうところの高速道路。人馬の継ぎ送り制度など荷を運ぶにもいろいろとお金がかかったことと思われます。商売上手の渋沢栄一のこと、中山道を使ったのかはちょっと疑問です。そのため今回の予測では外すことにしました。

信州上丸子へ向かう道を現在の地図を眺めて予測してみる

【ルート1】
〇秩父から志賀坂峠、十石峠を越えて信州へ行く道(約140㎞)

血洗島から秩父往還を秩父市を経由して志賀坂峠(しがさかとうげ)を越えて武州街道へ。さらに十石峠を越え、佐久市より上丸子へ至る道

【ルート2】
〇武州街道で十石峠を越えて信州へ行く道(約130㎞)

血洗島から埼玉県本庄市児玉や藤岡市鬼石を経由して武州街道で十石峠を越え、佐久市より上丸子へ至る道

【ルート3】
〇信州街道(富岡街道)で内山峠を越えて信州へ行く道(約120㎞)

血洗島群馬県藤岡市や富岡市を経由する信州街道(富岡街道)で内山峠を越えて佐久市より上丸子へ至る道

信州上丸子へ向かう道を現在の地図を眺めて予測してみる

血洗島から上丸子までの3つのルート図

(地図:卓上版日本全図)

現在の地図からそれぞれのルートを検証してみる

3つのルートについて現在の地図からそれぞれ検証してみました。

【ルート1】秩父経由で志賀坂峠、十石峠を越えて信州へ行く道

遠回りをするルートですが、渋沢家の得意先には秩父地方もあり、若かりしころの渋沢栄一は秩父へ行き来していました。そのため秩父周辺の道に詳しく秩父を経由して信州へ行った可能性は大いにあります。しかし、道中には大きな峠が2つあり、信州と往復することを考えれば現実的ではないように思えます。

【ルート2】武州街道で十石峠を越えて信州へ行く道

秩父を経由した道よりも距離は短く、峠は十石峠のみのため秩父を経由するよりは現実的なルートに思えます。十石峠は地名由来とされる「1日に10石の米」を運んでいたことや「十石馬子唄」などから古くから人馬の往来があった峠です。しかし、十石峠の標高は1351mと高く、現在でも酷道といわれており、決して整備状況が良いとはいえない峠道でもあるため常時通る道であったとは考えにくいのではないでしょうか。

【ルート3】信州街道(富岡街道)で内山峠を越えて信州へ行く道

距離は一番短く、道中には藤岡、吉井、富岡、岩村田といった比較的大きな町もあり、道路状況も良かったと思われます。また、内山峠の標高は940m。現在の内山峠を見ると群馬県側はつづら折りが続きますが、長野県側は比較的緩やかな勾配となっている片峠になっています。条件だけ見るとこのルートを行き来していたと考えるのが一番良さそうです。現在でも信州へ抜けるルートとしては一番走りやすい道となっています。

上州から信州へ抜ける峠は9つあった!?

3つの峠を検証しましたがどれも確証には至りません。他に有力な峠はないのか。そんな疑問の中調べてみると、実は上州から信州へ抜ける峠は9つあることがわかりました。

その中でも渋沢栄一伝記資料「雨夜譚会談話筆記」を読み解くと主な峠は5つ。北から「碓氷峠」「香坂峠」「志賀峠」「内山峠」「戸沢峠」です。

このうち、香坂峠、志賀峠、戸沢峠3つの峠については道路地図にも国土地理院にも記載がありません。この3つの峠はどこにあるのでしょうか。

上州から信州へ抜ける峠は9つあった!?

「碓氷峠」と「内山峠」は地図上に記載されている他の峠もこの近くにあったと思われる

(地図:地方図関東)

3つの峠を探してみる

場所の判らない3つの峠。その謎を解く鍵は国土地理院 1915年(大正4年) 5万地形図「御代田」大日本帝國陸地測量部にありました。

地図には現在の矢川峠とあるところに「香坂峠」が、志賀峠という記載はないものの物見山の北に「志賀越」という文字が見られます。峠の順番からすると戸沢峠は星尾峠かもしれません。神津牧場の位置と照らし合わせてみても位置的には正しいようです。これで峠の場所が確認できました。

3つの峠を探してみる

国土地理院 1915年(大正4年) 5万地形図「御代田」大日本帝國陸地測量部

3つの峠を探してみる

峠付近の拡大図(中央上付近に「香坂峠」物見山の北に「志賀越」が見てとれる

国土地理院 1915年(大正4年) 5万地形図「御代田」大日本帝國陸地測量部

3つの峠を探してみる

現在の地図に当てはめてみると峠の位置が判明!

(地図:ライトマップル群馬県道路地図)

渋沢栄一はどの峠を越えていったのか?

渋沢栄一伝記資料「雨夜譚会談話筆記」には峠を越えた記述が残されています。要約すると21か22歳のころに雪の中を香坂峠を越えて信州へ向かう際、峠を越えた先で吹雪で道に迷ってしまい、遭難しかけたものの何とか信州側にある香坂集落の手前にある老夫婦の家に泊まったとあります。

この記述と1915年に発行された地図をもとに、今の地図と照らし合わせてみると群馬県側は県道43号線沿いにある下仁田町初鳥屋から峠道を通り、矢川峠を越えて長野県側は県道138号線佐久市香坂へ下りた形になります。そのため現在の矢川峠(香坂峠)を越えたというのが有力なのではないでしょうか。

渋沢栄一はどの峠を越えていったのか?

初鳥屋から矢川峠を越えて香坂へ

(地図:ライトマップル群馬県道路地図)

渋沢栄一は本当に矢川峠(香坂峠)を越えたのか?

ここで一つの疑問が生じます。確かに1915年に発行された地図をもとに推測すれば現在の矢川峠を通ったルートになりますが、渋沢栄一伝記資料「雨夜譚会談話筆記」によると「雪が降る日だったので香坂峠の前に泊まれば良かったのに、香坂峠は越えられるだろうと思って進んでしまった」とあります。

もし、その通りだとすれば、矢川峠を越えるためには信州街道(富岡街道)から北上し大きく迂回しなければなりません。仮に信州街道(富岡街道)沿いにある宿場で泊まる予定であったとすれば、時間的に越えられそうだからという理由で進んでしまう峠が迂回するルート上にあったとは少し考えにくいのではないでしょうか。ましてや厳冬期の峠越えです。慎重を期さなければならないのに峠越えを選択するでしょうか。

そこで、今度は『山と高原地図21「西上州 妙義山・荒船山」』で調べることにしました。山と高原地図では国道254号内山峠の手前にある下仁田町下野萱から県道44号線を通って神津牧場へ向かう登山道があります。そして、驚くべきことにその先に『香坂峠』と記載があります。

1915年の地図には記載があった香坂峠(現矢川峠)ではない香坂峠。この峠が渋沢栄一が通った香坂峠なのでしょうか。その答えを導く鍵が山と高原地図にありました。香坂峠の手前に馬や旅の安全を守る観音様である「馬頭尊」が記載されています。これは馬を利用してこの峠を行き来した峠道であったということの証ではないでしょうか。改めて山と高原地図から推測したことをもとに渋沢栄一伝記資料と照らし合わせてみた結果、どうやらこの峠を「香坂峠」と考えて良さそうです。

渋沢栄一は本当に矢川峠(香坂峠)を越えたのか?

神津牧場の先に「香坂峠」と「馬頭尊」の記載がある

山と高原地図21「西上州 妙義山・荒船山」

渋沢栄一が越えた峠は山と高原地図に記載された香坂峠だった!

渋沢栄一が信州へ藍を買い付けに越えて行った峠とは?これまでの資料や地図をもとに導き出した答えは『山と高原地図に記載のある「香坂峠」』だったになります。香坂峠は現在の神津牧場を抜けた先にあり、渋沢栄一はこの峠を越えて道に迷いながらも信州側の佐久市香坂へ向かったと考えられます。

しかし、渋沢栄一も遭難しかけたほどの峠。この地は難所であったため志賀越ルートをはじめ、季節や用途によって複数の峠を越えていったのではないかと推測します。仮にどの峠を越えたにしても当時の人たちの健脚ぶりには驚くばかりです。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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