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まっぷるマガジン編集部

更新日:2020年4月13日

オーストラリアの歴史 移民・多文化国家としての成り立ち

ラテン語の「未知の南方大陸」が語源のオーストラリア。先住民アボリジナルが暮らす地は、イギリス植民地として歴史を歩んできた。

アボリジナル・オーストラリア

オーストラリア大陸に、アボリジナルの祖先が住むようになったのは約5万年前の第4氷河期の中頃といわれている。現在よりも海面が120mほど低かったこの時期に、アジア系の祖先がスンダランドから狭い陸伝いに、サフルランド(オーストラリアとニュージーランドが地続きだった大陸)へと移動してきた。

2万年ほど前に解氷期が始まると海面が上昇、大陸間の移動が困難となる。オーストラリアは孤立し、1万年ほど前に世界的に広まった農耕文化も伝わらず、隔絶の大陸となった。

アボリジナルは数千年にわたり、狩猟・採集による生活を続けていた。最盛期には全土に25万〜30万人が暮らしていたといわれている。

オーストラリアの存在が知られるようになるのは、15世紀以降のことだ。パプア系の住民アイランダーズが北部のケープ・ヨークを訪れて以降、インドネシア人、中国人とも交易が行なわれるようになった。

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ジェームズ・クックの航海

大航海時代、ヨーロッパの大国はアジアとの交易拠点や植民地を探していた。1606年、オランダ人ヤンスがヨーク岬に到着、同年スペイン人の探検家トレスもニュージーランドとの海峡を通過したが、香辛料や黄金のない土地に関心を示すことはなかった。

1770年、タヒチでの天体観測と新大陸の探検を命じられたイギリス海軍のジェームズ・クックがエンデバー号でシドニー郊外のボタニー湾に上陸する。一帯を調査したあとに入植地になると判断、イギリス領有を宣言し「ニュー・サウス・ウェールズ(NSW)」と名付けた。

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大陸の東海岸に到達した初のヨーロッパ人、ジェームズ・クック

流刑地としての時代

1776年、アメリカ独立戦争に敗北したイギリスは、アメリカに代わる植民地を探していた。オーストラリアは有望な代替地とされ、1788年1月18日に初代総督となるアーサー・フィリップが囚人と軍人、その家族を率いてシドニー・コーヴへ上陸する。同26日にイギリス国旗を掲げてイギリスの植民地としての歴史が始まった。

入植当初は厳しい自然環境から植民地としての整備は難航したが、流刑者に開墾地を与えてから植民地経営は上向き、19世紀にはタスマニアの領有も宣言。自由移民も多く入植するようになり、都市は発展する。1847年にはイギリスからの流刑制が廃止となり、各州に自治権が与えられ、植民地として成熟をみせてゆく。

ゴールド・ラッシュ

1851年にNSWのバサーストで金鉱脈が発見されたのをきっかけに、オーストラリアはゴールド・ラッシュの時代を迎える。金に魅せられた大量の移民が流入し、1850年代初頭に40万人だった人口が、わずか10年で115万人まで急増した。

ヴィクトリア州のバララットでも同時期に金鉱脈が発見された。人口と富が増加し、メルボルンは短期間に一大都市へと発展してゆく。同時に治安も悪化し、金をめぐってのトラブルも増加した。

1854年、バララットでオーストラリア史上最大の武装蜂起、ユーレカ砦の反乱が勃発する。鉱夫たちの資本家や官憲による搾取への不満が爆発し、30名余の死者を出す惨事となった。しかし以降、採掘税が廃止され、参政権も得られるようになる。

ゴールド・ラッシュによる人口増加は非ヨーロッパ系移民、とくに中国人労働者の排斥運動へと発展する。安価な労働力は白人の失業問題を生み、社会的脅威となっていた。各植民地で移民制限の会議が行なわれ、白人優位の白豪主義へと世論は高まってゆく。

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メルボルンのオールド・トレジャリー・ビルディング。館内にはゴールド・ラッシュ当時の様子がわかる展示もある

オーストラリア連邦成立

19世紀後半に、社会的脅威となっていたアジア系労働者への反発が、世論を白豪社会の実現へと向かわせた。植民地同士の関税制度、移民問題、そして防衛上などの観点から、植民地6州を統合したオーストラリア連邦政府の樹立が模索されるようになる。1895年に6州による連邦成立のための憲法草案が作成され、各植民地で住民投票にかけられたあとイギリス議会で法制化された。

1901年に正式にオーストラリア連邦が成立し、メルボルンに暫定首都が置かれて憲法が発効された。アジア系移民の流入を合法的に制限する移住制限法を制定、アジア系移民希望者にヨーロッパの言語での入国テストを課し、ほぼ全員が不合格となるシステムを導入する。白豪社会は体現され、人口の大半をイギリス系移民と子孫が占めるようになった。

1926年にイギリスから自治権が認められ、翌年キャンベラに首都を移転する。

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第1回連邦会議の会場となった王立展示館(メルボルン)。1880年に開催された万国博覧会のために建築された

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1901年から1926年まで連邦議会が開かれていたヴィクトリア州議事堂(メルボルン)

2つの世界大戦

1914年にイギリスがドイツに宣戦布告すると、オーストラリアも第一次世界大戦への参戦を表明する。南太平洋のドイツ植民地を占領、ニュージーランドとともにアンザック軍を結成する。1915年にドイツの同盟国であるトルコにアンザック軍が進軍、首都イスタンブール陥落をめざすガリポリ作戦を行なうが、33万人の兵士のうち6万人の戦死者を出す。犠牲は大きかったが、これを機に1919年には国際連盟加入が認められる。

第二次世界大戦では、1941年に日本軍が真珠湾を攻撃した際に、アメリカ、イギリスとともにオーストラリアも宣戦布告する。日本軍にダーウィンやシドニーを攻撃され、3万人の犠牲者を出した。

2度の世界大戦を経て、人口減という深刻な社会問題を抱えるようになったオーストラリア。国防、経済面などから人口の増加が必要と判断し、移民受け入れへと政策を転換する。

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アンザック戦争記念館は兵士を祀っている(シドニー)

多文化国家として

第二次世界大戦後、オーストラリアはアジア、東欧、中東、南欧などから移民を受け入れるようになった。1958年にはアジア系移民を拒否するため行なわれていたテストを廃止、1972年には移民制限が廃された。白豪主義の時代は終焉を迎え、アジアとの経済関係を拡大させてゆく。

積極的な移民政策により、戦後700万人だった人口は1959年には1000万人を超え、経済発展をもたらした。インドシナ難民も多数受け入れ、アジア系社会を包括する多文化社会へと歩みだす。

先住民アボリジナルへの差別的な法も撤廃されてゆく。1967年には連邦憲法によって正式にオーストラリア国民としてアボリジナルを認め、人口にも含まれるようになった。1985年にアボリジナルの聖地であるエアーズ・ロック(ウルル)が返還され、1992年にはアボリジナルの先住権が正式に認められる。

ヨーロッパ、アジア、そしてアボリジナルの文化が融合し、多文化国家としての道を歩むオーストラリア。現在は200を超える国からの移民が暮らしており、生活水準の高さと社会福祉が充実した国として知られる。世界で最も暮らしやすい都市ランキングでも多くの都市が上位を占める人気の国となっている。

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都市にはチャイナタウンやベトナム系住民などが集まる街があり、多文化国家であることを実感する

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迫害の歴史をたどりながらも、独自の文化を守り続ける先住民アボリジナル。現在は3/4が都市部や街で生活をしており、街なかでパフォーマンスをする姿も見られる

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奥付:
この記事の出展元は「トラベルデイズ オーストラリア」です。掲載している情報は、2015年7〜9月の取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。 最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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