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まっぷるマガジン編集部

更新日:2020年4月13日

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ヴェネツィアの歴史 地中海を支配した海洋都市

東方貿易で繁栄し、「アドリア海の女王」と讃えられたヴェネツィア。街の起こりと発展、共和国としての1000年もの独立など、その歴史は異彩を放つ。

聖マルコの守護のもと発展

イタリアの諸都市のほとんどが、紀元前にその歴史をさかのぼるのに比べ、ヴェネツィアの起源はかなり遅い。「ラグーナ」と呼ばれる潟が誕生したのは約6000年も前のことだが、長らく人が住みつくことはなかった。集落ができ始めたのは、6世紀末とされる。異民族の侵略から逃れるため、本土の住人がラグーナの島々に杭を立て、その上に家を造って住み始めたという。7〜8世紀頃にはリド島のマラモッコ地区に街を形成。この時期に「ドージェ(総督)」を中心とするヴェネツィア独特の政体が生まれ、共和国の基礎がつくられた。 9世紀、街の中心は本島のリアルトに移る。当時、自治を確立するためには、しかるべき守護聖人を得て、宗教的な独立を守る必要があった。そこで828年に、2人のヴェネツィア商人が福音史家・聖マルコの遺骸をエジプトのアレキサンドリアから運搬。聖人を祀るためにサン・マルコ寺院が創建された。聖マルコの象徴とされる「有翼の獅子」像が誕生したのもこれと同じ時期で、ヴェネツィアの紋章として街の各所に配された。 ヴェネツィアの産業は、当初は漁業が主体だったが、街が発展するにつれて商取引が行なわれるようになる。10世紀には、ヨーロッパとオリエント世界を結ぶアドリア海の付け根に位置する地の利を生かし、東方貿易の版図を急速に拡大した。

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by fotolia - © Christoph Hähnel

聖人を祀るサン・マルコ寺院

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by fotolia - © Comugnero Silvana

街の紋章「有翼の獅子」は9世紀には誕生していた

地中海を支配し、貿易を独占

11世紀には、聖地エルサレムを奪回するための十字軍遠征が始まる。1095年の第一次十字軍でヴェネツィアは船と食糧などを用立て、その後の十字軍もこの街から出発した。これを機にヴェネツィアは地中海の要所に商館を設け、地中海での勢力を拡大。1202〜04年の第四次十字軍では、ドージェのエンリコ・ダンドロが遠征軍を指揮し、地中海の要衝であるコンスタンティノープルを陥落。これにより、ヴェネツィア共和国は地中海の大半を支配下に置き、黒海の覇権をも握った。 『東方見聞録』で知られるヴェネツィア生まれの商人、マルコ・ポーロが海路と陸路で中国まで達したのはまさにこの時代で、その旅は1270〜95年の長きにわたった。 1348〜49年にはペストが猛威をふるい、ヴェネツィアは人口の半分を失う。しかし、共和国の威信と勢力は衰えなかった。13世紀半ばからは、同じ海洋共和国であるジェノヴァとの抗争も続いていたが、1380年のキオッジャの戦いでヴェネツィア軍が圧勝する。翌1381年にトリノで講和条約が結ばれ、ヴェネツィア共和国はアドリア海と地中海の覇権を手にし、東方貿易を独占した。ヨーロッパと東方との交易品のすべてがヴェネツィアを経由するようになり、商取引による莫大な富がもたらされることになった。

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by fotolia - © Comugnero Silvana

共和国の繁栄の大舞台となったドゥカーレ宮殿

15世紀に独自の芸術が開花

14世紀後半〜15世紀に、ヴェネツィアは経済、軍事、文化、芸術のすべてにおいて絶頂期を迎える。サン・マルコ広場周辺や大運河沿いには、ゴシック様式やルネサンス様式の華麗な宮殿や館が建てられた。東方文化の影響により、ビザンチン様式が混在・調和した建築物が多いのが特徴だ。 絵画ではヴェネツィア派と呼ばれる画家たちが、この街独特のルネサンス文化を花開かせる。ティツィアーノや、ティントレット、ヴェロネーゼらが、光と色彩を駆使した技法により数々の傑作を生み出した。 また、街の伝統工芸であるガラス細工やレースもこの時期に発達し、水の都で生み出される繊細で華麗な工芸品は、ヨーロッパ中の貴族たちの憧れとなった。

海洋共和国の凋落と終焉

16世紀になると、共和国の繁栄に陰りが出る。1571年のレパントの戦いでトルコ軍に勝利したものの、キプロスを失った。その後、トルコとの戦いは17世紀まで続き、ヴェネツィア経済は戦費で疲弊していく。さらに、大航海時代の到来によって新大陸とを結ぶ航路が発見され、海洋貿易の版図が激変する。こうして、ヴェネツィアの地中海での威光は衰退の一途をたどることとなった。 1630年には再びペストが大流行し、人口が大幅に減少。1669年にはトルコにクレタ島を奪われ、さらに1718年にペロポネソス半島のモレアを失い、ヴェネツィアの地中海での支配に終止符が打たれた。1797年にはナポレオンがヴェネツィアに入城、総督ルドヴィコ・マニンが無血開城を受け入れ、共和国1000年の歴史が幕を閉じた。

享楽的な祝祭都市へと変貌

18世紀末から19世紀半ばにはオーストリア、フランスの外国支配を受け、1866年に統一されたばかりのイタリア王国に併合された。共和国の終焉後、ヴェネツィアは貿易や外交の表舞台からは退いたが、1000年の歴史が生んだ建築と芸術を基盤として、祝祭的な文化都市へと変貌を遂げる。 18〜19世紀には劇場やカフェが次々にオープンし、ヨーロッパ各地から訪れる芸術家や文化人で賑わった。この街独特の「リドット」と呼ばれる社交場では、仮面で身分を隠した人々が官能的な遊びや賭け事にふけった。ヴェネツィア生まれの作曲家ヴィヴァルディはこの時代を生き、耽美なメロディのイタリア・バロック音楽を完成させる。稀代のプレイボーイ、ジャコモ・カサノヴァもこの街で生まれ、快楽と耽溺が支配する18世紀のヴェネツィアを生きた。

世界的な観光都市の誕生

20世紀以降、ヴェネツィアは世界的な観光都市として人気を集める。ラグーナの旅情、サン・マルコ広場や大運河の華やかな建築物、美術館や博物館が所有する芸術作品、水上の迷宮のような構造など、街にあるものすべてが比類なき美をたたえる。 祝祭的な街にふさわしく、華やかな祭りも多い。2月のカーニバル、7月のレデントーレの祭り、9月の歴史的レガッタ、11月のサルーテの祭りなどの時期に訪れると、ヴェネツィアの歴史がいっそう身近になる。

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1000年にも及ぶ共和国の栄光が、街の各所に点在する

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奥付:
この記事の出展元は「トラベルデイズ イタリア」です。掲載している情報は、2014年10月〜2015年1月の取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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