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まっぷるマガジン編集部

更新日:2020年4月13日

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【上海の歴史】世界を魅了する魔都

上海を中国の他都市と一線を画す存在とする、外灘に並ぶ石造りの洋館。世界有数の国際都市がたどった、波乱に満ちた道程を見ていこう。



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アヘンとともに歴史が始まる

上海は18世紀には長江河口の物資の一大集散地として発展を遂げていた。とはいえ、中国の一都市にすぎなかった上海に、「東洋のパリ」と称されたヨーロッパ風の街並が生まれるきっかけとなったのが、1840年に起きたアヘン戦争だった。 

戦争の原因は文字どおりインド産の麻薬アヘンだった。産業革命で起きた労働者の増加により需要が増し続ける茶葉の対価となる物品として、大量に中国へ輸出されたのだ。当時の清朝によりたびたび禁令が出されたものの、行政機関の腐敗もあり密輸は止まらず、アヘンはまたたく間に中国全土で中毒者を出していった。 

アヘンの輸入増大による銀高騰や、中毒の蔓延による風紀の退廃などを憂慮した清朝は、アヘン反対論者であった林則徐を、当時の鎖国政策のなかで唯一外国へ開かれていた広州へ派遣した。没収したアヘンを焼却処分するなどの厳しい取り締まりに、イギリス商船との緊張はしだいに高まり、戦争へと発展した。 

戦争は圧倒的な海軍力を持つイギリスの勝利に終わり、1842年、上海など5都市の開港を含む南京条約の締結で終結した。条約締結ののち、上海の県城の北、黄浦江の西岸(のちの外灘)に、最初の租界(域内での行政権や治外法権が与えられた土地)がつくられた。1848年にはイギリス租界は拡張され、続いて同年中にアメリカ、1849年にフランスも租界を獲得した。のちにイギリスとアメリカは共同での租界経営を始める。

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租界が繁栄を迎える

1851年の太平天国の乱と、それに呼応して起きた1853年の小刀会による上海県城の占拠で、清朝行政の機能はマヒし、各租界は自衛のための武装を固め、関税徴収も行なうようになった。戦乱を避け多くの中国人も上海へと流入し、都市人口は増加した。 

開港直後に上海に進出したのは、ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)など、アヘンと茶の取引で資本を蓄えた貿易商社がほとんどだったが、しだいに保険、銀行、不動産、造船とその業務を広げ、20世紀初めには外国商社は600社を数えるほどに増加した。外国人の生活のために、道路や水道、ガス灯、続いて電灯など近代的なインフラも整えられた。 

一方で中国人も、買辦と呼ばれる外国商社と現地市場の仲介者として、上海の経済活動に参加し、工場の経営などに乗り出して大きな財を蓄える者も現れた。重要な役割を果たしたのが、幇と呼ばれる地縁をもとにしたネットワークで、これはやがて青幇、赤幇など、裏社会を牛耳るマフィアへと変化した。 

自動車や人力車が賑やかに行き交い、モダンな音楽やダンスが楽しまれる一方で、目を移せばアヘン窟や娼館が並び、マフィアの勢力争いが繰り広げられる、魔都と呼ばれた都市風景が生まれていった。

上海となる前は?

上海の地はかつては海だったところで、長江の土砂が堆積し完全に陸地となったのは、隋や唐の時代になってからと新しい。上海はいくつかの古名を持ち、そのうち「滬」は付近の漁民が使っていた魚獲りの籠に由来し、上海と北京を結ぶ鉄道路線の京滬線や、上海料理を表す「滬菜」で見られる。もうひとつの「申」は戦国時代に長江の河口の地を治めていた春申君に由来し、サッカーチームで知られる上海申花など、上海に関わりのある名に多く使われている。

革命が中国に混乱を生む

上海が繁栄を謳歌する一方で、中国の他の地域は世界的な激変の波にのみ込まれていた。アヘン戦争、アロー戦争での敗北と賠償金支払いや相次ぐ内乱で、国力は疲弊しきっていた。1894年の日清戦争、1900年の義和団の乱は、外国勢力のさらなる侵出を許すこととなった。西太后のもとで改革が進められたものの、各地で反清朝の組織が作られ、1911年の辛亥革命へとつながることとなる。 1912年元日、南京で中華民国成立が宣言され、初代臨時大総統に孫文が就任した。同年3月には、皇帝の退位を実現させた北京側の代表、袁世凱へ大総統の座は譲られた。軍事力を背景に中央集権化を急ぐ袁世凱の政権のもとで各地に軍閥が割拠し、1916年の袁世凱死後は、中国には再び混乱が訪れた。

共産主義の台頭

上海の先進的な風土は、共産主義とナショナリズムのゆりかごとなった。魯迅らが行なった新文化運動を背景に、反日を訴えた五・四運動は、1921年の共産党創立につながり、1924年、国共合作により孫文の国民党と手を組むほどの影響力を持つようになった。五・三〇運動の大規模ストライキも、中国全体に大きな影響を及ぼした。一方、共産主義の台頭に危機感を抱く外国勢力や上海の財閥の協力を受けたのが、孫文の後を継いだ蔣介石だった。1927年には、諸外国や資本家、青幇の首領・杜月笙の援助を受けながら、共産党員300人以上を処刑する上海クーデターを実施。アメリカとのつながりはその後も強く続いた。なお、恋愛結婚ではあったが、蔣介石の妻・宋美齢も上海実業家の娘である。

蔣介石(ジャンジエシー)1887〜1975

孫文とともに辛亥革命に参加し、上海での雌伏の時を経て最高権力者に登り詰めた。国共内戦に敗れ1949年に台湾へと逃れたのちは、中国本土へ戻ることはなかった。

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上海を訪れた日本人たち

日中戦争が始まる前も、日本人は上海に居住する外国人のなかで最も多く、最終的には10万人を超えた。パスポートなしで行くことができる外国、上海に多くの日本人が夢を求めて訪れ、虹口には大きな日本人街が成立した。租界成立直後に訪れたのが高杉晋作で、外国文化との出会いは大きな影響を与えた。ほかには、魯迅との親交で知られる内山完造が有名だが、村松梢風、芥川龍之介、谷崎潤一郎も上海を訪れ、この地を舞台とした作品を残している。

大戦と輝かしい時代の終わり

日中戦争と続く第二次世界大戦の混乱のなか、各国のさまざまな思惑のもと、上海租界は中国へと返還され、終戦によって上海は中国人の手に100年ぶりに戻された。 

だが、蔣介石を援助するアメリカから運び込まれた大量の物資は強烈なインフレを招いた。上海が落ち着きを取り戻したのは国共内戦が終わり、1949年に毛沢東率いる中華人民共和国が成立してからだった。アヘン窟や娼館は閉鎖され、10年のうちに上海は国際的な魔都の姿を失った。アヘン戦争以前と同じ中国の一都市へ戻った。

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1992年に区となって以来、大きな開発が進む浦東。建ち並ぶ超高層ビルは、急成長する中国を象徴する風景だ

毛沢東(マオズードン)1893〜1976

上海で開かれた中国共産党第一次全国代表大会に出席していた。農村出身で、農村からの革命を唱えた彼には、大商業都市上海の持つ機能はほとんど重要視されなかった。

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Tiananmen, or Gate of Heavenly Peace, by Mal B, CC BY-ND
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